2008年08月16日

神仏は妄想である 117

日本人だからこそ、仏教を後にも、思索できるほどに、高みに上げたと、言った。

仏教という、当時の学問は、多くの思索の方法を教えたが、それはまた、観念の産物であった。

一番の、観念は、厭離穢土という、考え方である。
つまり、この世は、厭離すべくの場所、穢土だというのである。
一体、仏教以前に、日本にそのような、考え方はあったろうか。

何故、この世が、汚い、厭うべき場所なのか。
そして、欣求浄土といい、清い、浄土を望むという、観念である。

この、考え方は、今でも、すべての仏教が、取り入れている考え方である。

また、新興宗教系も、例えば、この世を、現象の世界といい、あの世を、実相世界とするのである。

この世の思想と、あの世の思想である。

この世は、移り行く世界であり、あの世は、完全無欠な世界であるとする。
この観念から、抜けてはいないのである。
どれほど、科学的な宗教観を持っても、そこから、逃れられない。
何故か。
つまり、あの世を、前提に置かなければ、教えに、迫力が、欠けるのである。

要するに、相手が、知らない、解らない世界を持って、語り掛けるという、手品を行うのである。
現世利益という、方法をとっても、それでもなお、あの世行きを、提言する。
天国に行く、極楽に行く。

源信の、往生要集は、地獄の様を、ありありと描いた。それを、絵にして描いて見せた。それはそれは、恐ろしい世界である。無智な者は、畏れたであろう。そして、今度は、極楽の様を見せる。
何と言う、低俗な感覚であろうか。
それも、すべて、想像である。

文学的価値としては、十分に納得するが、それをもって、信仰を促すという根性は、ただ事ではない。

それは、仏教の、厭離穢土欣求浄土という、観念から出ている。
日本の伝統には、そんな考え方は無い。

万葉の世界には、そんな世界観は、無い。

仏教が、根を下ろしてから、暫くして、そのような、観念に覆われたのである。
お勉強するならば、よかったが、それをそのまま、信じてしまった。
ところが、調べてゆくと、仏典は、事実であると、信じていたというから、驚いたと、共に、さもありなんと、思った。
ある時期まで、仏典は、事実を書いているものとして、扱われていたのである。

いずれ、禅などを書く時に、明らかにする。

この世を、厭い、浄土を願うから、往生を願うという。
往生は、浄土門の人々が、使い、成仏とは、自力の宗派聖道門が、使う言葉である。

もともと浄土への欣求は穢土への厭離の念を去ってはいない。浄さへの求めと、穢れへの厭いとは結ばれねばならなぬ。だから往生を遂げる得るのは、往生も能わぬ自らを省みることでなければならぬ。それ故浄土の国に往いて生まれるのは、自らに資格があって往けるのではない。仏が来り迎えるので浄土に往けるのである。往生の真意は浄土への到達ではなくして、浄土からの引接なのである。この引接が来迎である。それ故来迎なくしてどうして凡夫に往生が出来よう。この事実をまざまざと眼に浮かべる時、来迎の図相が生まれたのである。これより真実な仏の慈悲の描写があろうか。
柳宗悦

引接、いんじょう、という、あちらからの働き掛けを言う。
実に、驚くべき、蒙昧である。

厭離穢土という観念も、蒙昧だが、来迎という考え方も、蒙昧である。
その、来迎を、ありありと、目の前に見るという、観想をまた、善しとする、修行とは、単なる妄想の様を、促すのみである。
確かに、死者の心は、想念に任せられるが、思い描いた、来迎の妄想に、心を、浸らすというのは、あまりにも、馬鹿げている。

さらに、来迎とは、仏の側から、来ることであれば、念仏なども、しなくていいのである。仏の慈悲は、念仏申さんとしても、しなくても、あるものであれば、来るのである。

つまり、ここに至ると、キリスト教の、恩寵の思想に似る。
神は、善人の上にも、悪人の上にも、日の光を与える、というのと同じである。

特に、親鸞の場合は、キリスト教の、神の愛の思想に、実に近く、こういう自虐的信仰を持つこと自体、彼が、病んでいたことを、教える。
罪人こそ救われるというのは、イエスが、私が来たのは、健康な人のためではなく、病にある人のためである、という言葉を、思い出させる。

絶対帰依というより、すべて、投げ捨ての信仰である。
よく言えば、与えられた信仰、賜りたる信仰であるが、悪く言えば、お任せの信仰、捨て身の信仰であり、それは、一見して、深さのあるようなものに、見えるが、単なる、限界の様である。
何が限界か。
我に対する、罪意識の妄想である。

弥陀の本願は、親鸞一人がためなり、という言葉を、浄土信仰の面目のように、解釈するが、それは、誤りである。
あの時代だから、受け入れられるが、今の時代は、浄土信仰も、一つの情報である。
更に、仏典は、事実ではないという、証明がなされたのである。

迷いを、深さと、勘違いする時代は、過ぎたのである。

更に、禅では、まだまだ、深いと、思わせる言葉に溢れている。
文学として、残るのは、禅の文学である。

さて、親鸞は、来迎の様まで、捨てた。
法然も、親鸞も、共に、一切の、既成仏教の祈りの様を捨てた。
しかし、浄土宗は、来迎まで、捨てなかった。
浄土真宗は、来迎までも、捨てるという、徹底さである。

念仏の、六文字さえあれば、足りるとした。
来迎も、自力の有り様だと考えた。
日蓮宗の題目を、ご本尊として掲げるのと、同じように、念仏の文字だけで足りた。
往生というものを、平生とした、平生業成の教えである。
これは、その瞬間、その刹那、往生しているという、考え方である。

つまり、今救われていると、考えることである。
臨終に救われるのではない。今、救われている。
しかしそれは、親鸞によって、成った、考え方ではない。
皆、そのような、考えに至ったのである。

前回も、書いたが、一遍のように、仏教、浄土門という、迷いを通して、元の、大和心に戻ったと、同じように、結局は、念仏などいらない世界に立ち戻るのである。

弥陀の本願というものが、あるならば、念仏などしなくしても、救われるのである。

なんとなれば、弥陀の四十八願というものは、皆、仏の世界に生まれなければ、仏にならないという、願なのである。

人間であってしかも人間に縛られない時が、覚りの姿なのである。
柳宗悦

覚りに関しては、禅のところで、検証するが、上記、人間であって、人間に縛られない時とは、いつか。
人間に、縛られないという観念は、実に愚かである。
人間は、人間であることに、意味があり、人間というものに、縛られて、というより、何故、縛られると考えるのか、である。

厭離穢土と同じように、厭離人間と、何故、考えるのであるのか。
実に、病んでいるのである。

万葉は、人間讃歌である。
それが、大和心であった。
この、無常にある、人間であるからこそ、尊く、高いものである。
人間であるから、善しなのである。

人間の持つ、欲望等々を、厭うという思想は、実に、病む思想である。
欲望を、恵みとして捉えた、万葉の時代は、実に、健全であり、それが、大和心、大和魂といわれるものである。

浄土思想は、学ぶに足るものであるが、信仰に上げてはいけない。
それは、迷いである。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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