2008年08月15日

神仏は妄想である 116

大無量寿経に「それ彼の名号を聞くことを得ることありて歓喜踊躍し、乃至一念せん。当さに知るべし、この人は大利を得るとなす、即ちこれ無上の功徳を具足するなり」とある。

これを、一念無上の文、といい、一念は一声のことである。

念仏をもって無上となすなり。概に一念を以って一無上となす、当に知るべし、十年を以って十無上となす、また百念を以って百無上となし、また千年を以って千無上となす。
法然 選択本願集

ここでも、思案の深さについての、云々がある。
つまり、多念か一念かである。
また、それが、行と、信かとの云々である。

行とは、多く念仏を唱えるということであり、信とは、一念の念仏に、重きを置くかということである。

常念仏の生活こそは、念仏行者の生活である。不断念仏であり、多念仏である。生涯を念仏に捧げるのであるから、おのずから多念の行となるのである。即ち専修念仏こそを、念仏行というのである。
柳宗悦

しかし、そこから、一念念仏という、考え方も生まれる。

むしろ念仏を念仏たらしめるものはその純度にあるともいえよう。数ではなく質が肝心である。たとえ一念といえども十全の念仏たるなら、概に往生が約束されたものといえよう。念仏を横断面に見るなら数の多念となろうが、これを縦断面に見るなら、質の一念となろう。この一念は結晶された多念ともいえる。一念に念仏の念仏があるのである。ここで一念義へと考えは進んだ。
柳宗悦

これが、深みというものであろうか。
一念と、多念で、思索するという、姿勢である。

専門家は、弥陀の本願の十八願の、因文により、法然は「乃至十念」の言葉に、多念と見た。親鸞は、その果文により、「乃至一念」即ち、一念の信に重きを置いたと見る。

親鸞の思索の著しい点は、一念の深さに念仏の相を見たことにある。それ故信に充ちた一念に概に往生の業が果たされているのを感じた。誠に一念とはいえ、念仏の一切を集めた一念である。念仏の数ではなく質にその意義を見抜いた。それ故第十八願が一般に「往生の願」と呼ばれているのに、それを「信楽の願」といい改めた。念仏とは称名よりもまず信心を意味した。かくして称名は、むしろ報謝を意味する行として考えられるに至った。一念に信を決定すれば、概に成仏の位を得たのであって、爾余の念仏は報恩のための念仏であるとされた。
柳宗悦

ここで、親鸞は、賜りたる信仰という境地に、達したということになる。
念仏は、救われてあるということの、感謝の念仏なのである。
そして、絶対帰依である。

これが、深みであろうか。

私は、これを、迷いとみるものである。
経典の言葉の解釈を、深めているのであろうが、それは、単に、そこから、その中からでしか、思索の幅を広げることが、出来ないという、致命的、思索に陥ったのである。
それが、思索の深さであろうか。

ところが、一遍になると、更に、突っ込んで、報謝の念仏で、いいのかということになる。

念仏、それ自体が、報謝であるという、画期的な、考え方である。
一遍は、念仏を何々の目的としては、ならないという、境地に達する。
目的を前に置く、念仏は、不純であるというのだ。

念仏はただ念仏である。

一切の念仏は、各々が念仏自らの念仏とならなければならいない。それを指して当体の一念とはいったのである。それ故、念々が一念でなければならぬ。かかる一念には、もはや称える私もなく称えられる仏もない。そこに往生があるのである。それ故、念々の往生である。名号のほかに往生はなく、名号が往生なのである。
柳宗悦

一遍は
一念十念も本願にあらず
名号の所には一念十念という数はなきなり
と、言う。

法然は、多念を見て、親鸞は、一念を見て、一遍は、一念多念を見て、称えること、それが、往生だと、見た。
つまり、一遍は、称える行為に、往生を見たということであり、それが、祈りを上げる者に、一番相応しい姿である。

理屈を超えたのが、一遍である。

称えることのみに、往生がある。
どこか、遠い所に、極楽があるのではない。今、ここが、念仏を称える私が、極楽なのである。

私も、それに賛成する。

一遍が、捨て聖であること、十分に理解する。
そして、その教団は、今無い。当然である。
一人一代の信仰であり、一人一宗一派が、その信仰なのである。

思索の深さというのは、間違いである。
単なる、経典の解釈である。それを、信仰の深さ、思索の深さとするのは、誤りである。

法然は、念仏すれば、仏がその人を念じる。
親鸞は、念仏しなくとも、仏はその人を念ずる。
一遍は、仏か仏を念じている。

法然は、仏と人を対座させる。
親鸞は、仏からの願のみが、流れ来る。
一遍は、我とか、人というものが、消えて、仏のみになる。

その教え、親鸞ひとりがためなり、と言う言葉に、親鸞の信仰の深さがあるようなことを言うが、我一人という意識も、一遍には、無くなる。
理屈は、無いのである。

念仏の外の余言をば皆たきごとと思ふべし
と、一遍は、言い切る。

この一遍の信仰の、大元は、実は、大和心なのである。
浄土門を、格調高く押し上げたのは、日本の伝統なのである。
それは、元からあった、日本人の心象風景である、もののあわれ、というものである。
一遍は、念仏を通して、そこに、立ち戻ったのである。

もののあわれ、の他に、この世のことは、有り得ない。
だから、念仏が念仏するという、境地に達した。
我など無い。
あるのは、大和の山川草木にあるものである。
それは、心であった。
日本の心であった。

仏教が、ここまで、高みに至ったのは、日本人だからである。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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