2008年08月14日

もののあわれ276

源氏「幼き人まどはしたりと、中将の憂へしは、さる人や」と問ひ給ふ。右近「しか。をととしの春ぞ物し給へりし。女にて、いとらうたげになむ」と語る。源氏「さていづこにぞ。人にさとは知らせで、我にえさせよ。あとはかなくいみじと思ふ御かたみに、いと嬉しかるべくなむ」と宣ふ。


源氏は、小さな子を見失ったと、頭の中将が惜しく思っていたが、その子は、と、お尋ねになる。
右近は、はい、昨年の春に、お生まれになりました。
女の子です。
それは、たいそう、可愛いお子です。と、言う。
源氏は、どこにいるのだ。皆に、知らせず、我に預からせてくれ。
あっけない、しみじみとする女君の、お形見に、なんて嬉しいことだろう。と、仰る。

あとはかなく いみじと思ふ
後はかなく、その後は、儚いのである。あっけないと、訳すか。どうも、違う。
矢張り、後は儚くなのである。
いみじと思う。しみじみと、思う。いや、それも、感じが違う。矢張り、いみじと、思うのである。

いと らうたげ
よく出てくる、表現である。可愛らしい。
これは、らう たげ、であろう。
文法解釈ではない。


源氏「かの中将にも伝ふべけれど、いふかひなきかごと負ひなむ。とざまかうざまにつけて、はぐくまむ咎あるまじきを、そのあらむ乳母などにも、ことざまに言ひなして、ものせよかし」など語らひ給ふ。右近「さらばいと嬉しくなむ侍るべき。かの西の京にて生ひ出で給はむは、心苦しくなむ。はかばかしく扱ふ人なしとて、かしこになむ」と聞ゆ。



源氏は、あの中将にも、知らせても、いいが、かえって、怨みをかうこともあろう。
あれこれにつけて、私が、育てるのに、不都合はないだろう。
その、乳母などにも、言い繕い、連れておいで。と、言う。
右近は、そうなりましたら、どんなに、嬉しいことでしょう。
あの、西の京で、成人するには、お気の毒です。
きちんと、お付申す者がいない、あちらに、いますと、と、答える。


いふかいなき かごと負ひなむ
あえて、益のない、無用な、怨みを買う。
つまり、何故、女を死に至らしめたのか、と。

とざまかうざま
あの女の子でもあり、更に、中将の子であれば、源氏の姪に当たることになる。
妻の兄の子である。
それを、あれこれにつけて、と訳す。



夕暮れの静かなるに、空の気色いとあはれに、おまえの前栽かれがれに、虫のねも鳴きかれて、紅葉のやうやう色づくほど、絵にかきたるようにおもしろきを、見わたして、「心よりほかにをかしきまじらひかな」と、かの夕顔のやどりを思ひ出づるも恥ずかし。

この、風景の様、そのままに、二人の心の、風景なのである。
それが、物語の、核心に迫る。
風景描写が、単なるそれではなく、心の模様なのである。


静かな夕暮れの時、空の景色は、あはれに、この、あはれは、趣き深くとか、心に染み入る空ということになる。
庭の、植え込みも、枯れ枯れして、虫の音も、嗄れ果てたという。
紅葉が、次第に色づく風情、絵に描いたように、美しい。
右近は、それを、じっと見て、思いがけず、良いお勤めだと、夕顔の宿を思い出すにつけても、顔の赤らむ思いがする。

絵に描いたように、美しい。とは、おかしな表現である。
絵に描いたものより、目の前にある、風景の方が、実である。
つまり、美しいという、実感を、絵に描いたようにと、例えでいる。

更に、この風景の中に居る、二人の風情である。
しみじみとした、情感が流れる。

心より ほかに をかしき まじらひかな
まじらひ、お勤めすることが、をかしき、ことなのだ。
結構な、勤めである。


そして、
かの夕顔の やどりを 思ひ出づるも 恥ずかし
何故か。何故、恥ずかしいのか。

住まいが、貧しいからか。
女が、一人で、いたからか。
女が、情婦のようだからか。
親が、出世しなかった故に、女の立場も、良くなかったからか。
身分の低いままで、死ぬまで、そのままである、女というものの、定めにか。

さて、私にも、解らない。

すると、先ほどの、風景が、見える。
夕暮れの静かなるに
空の気色 いと あはれに
虫のねも 鳴きかれて
紅葉の色づくほど
絵にかきたるやうに おもしろきを

源氏の、身分と、右近の、身分とが、風景の中で、平等なのである。
もののあわれ、というものは、平等に与えられているのである。

万葉の歌のように、民も、主も、平等なのである。
歌道が、もののあわれ、というものに、支えられているのである。

風情の前に、人は、平等である。
例えば、仏陀の説く、平等などと、比べると、実に自然な、平等感覚である。
自然の前には、皆、平等なのである。
大和心というもの、自然の前に、平等であると、言うのである。
しかし、それを、あえて、言わない、言葉にしない。
しかし、言葉にしないから、無いというのではない。
観念というものを、置かない中に、日本の伝統というものがある。

観念としてしまうらば、嘘になる。
その、嘘になるということを、知っていたのである。

欧米の思想などは、足元にも、及ばない、実に、無いというべき、思想が、流れていいる。

もののあわれ、というもの、言葉で、語りきれない。
だからこそ、それは、事実であり、それ以外の何物も無いのである。

それは、感じるものである。
つまり、感性である。
感性の、ありようを、言葉にすれば、堕落する。

すべて、風景を、語ることで、それを、完結するのである。

以下省略。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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