2008年08月13日

神仏は妄想である 114

念仏申さんと思い立つ心のおこるとき

親鸞は、心の動機を言う。
そして、その、念仏申すという心の動きは、どこからくるのかといえば、賜りたるものという。

我の信仰ではなく、信仰するという心も、あちらから、つまり、弥陀の本願から出るものである。

主イエスも、やはり、私があなたを、選んだという。それも、賜りたる信仰に、昇華する。

主体は、客体になり、主体と、客体が、混合して、行き着くところが、これ、である。
これも、心身脱落である。
後で、道元のところで、書くが、皆、この、心身脱落をもって、よしとする。また、それを、求める。
心身を脱落して、弥陀の御手に委ねる。
神の御手に、委ねる。

信仰の行き着く先は、そこである。
それは、計らい、はからい、を、捨てた時に、現れる心象風景なのである。

これを、語ると、また、延々とした議論になるので、省略するが、計らい、というものを、排除して、成り立つという、宗教心情の、極みである。

勿論、計らいを、捨てたという、計らいは、残る。
だから、その、計らいというものも、捨てる。捨てて、捨てて、すべてを、捨てるという境地に至る。

そして、南無阿弥陀仏が、南無阿弥陀仏を唱えるという、境地に至る。

ホント、ご苦労さんなことである。

蒔きも、刈り入れも、捕ることも、造ることもせず、ただ、言葉の遊びに、始終して、救いだ、往生だという。
それを、今の今まで、している。
当時は、それが、学問であるから、その時代性、時代精神があったから、まだ、理解は、するが、現在、それも、情報の一つである。

人間の妄執というものは、とんでもないことだと理解出来るのは、共産国で、細々と、続けられる信仰を見る時である。

ロシア正教会を、みる。
聖職者ではない。
彼らは、同性愛の隠れ蓑にし、更に、一人の女では、収まらない者が、聖職者となり、幾人もの女との、関係を持ち、子までなすという、彼らのことではない。また、同性愛を、否定するものでもない。

宗教を否定する、国家にあっても、民衆が、信仰を必要とすることである。

どんな状態下にあっても、祈るものを、欲するという、悲しみである。
私は、これは、人間の歴史の定めだと、思っていた。

いつか、私は、何故、人は、祈るのかと、疑問を投げかけた。
そして、人は、何故、救われたいと思うのか。
そして、その救いというものは、何か。

何故、いかなる理由があって、救いを、求めるのか。
すべて、観念による。

何一つ、実体は無い。

キリスト教国の、政治を見ると、キリスト教徒の団体が、政党を、作る。それが、最も、現実味があり、宗教活動より、政治活動の方が、実際的である。
そして、さらに、イデオロギーというものが、なければ、成り立たない、人種というものがいるのである。

どうしても、言葉で、語るというものが、必要な者がいる。
また、最初に、思想である、イデオロギーである、言葉が必要だと言う。
それから、事が始まるのである。

それを、多く負うのが、宗教である。
哲学や思想も、それらに、理由される。
キリスト教神学は、ギリシア思想を持って成った。カトリシズムである。そして、それに、対抗し、批判して、プロテスタントがある。
両者共に、着かず離れず、良い距離感覚をもって、相対している。
勿論、地域によっては、紛争が絶えないところもある。

最初の一人の言葉から、離れて離れて、それらの言葉を利用して、自分の思想を、築き上げるという行為を、思想というのであれば、それはそれでいい。

マルクス主義など、信じてない者が、それを、利用して、共産主義革命を推し進める。実際、共産主義というものも、宗教と、変わりなく、妄想である。
宗教と、同じ根から、出ている。

人類が、アフリカの数百人から、始まったように、それらも、そのようである。

それが、人類の、進歩発展である。

ただ、宗教には、もう一つ、霊性とか、見えない空間を、作り上げるという、不思議がある。単なる、イデオロギーに終わらない、妄想に、大きく依存する。

往生して、極楽浄土に行く、神の国、天国に入る等々。

その妄想のために、無用無駄な、祈りを成す。
更に、無明の世界に、身を入れてしまう。勿論、彼らは、無明などとは、思わない。それが、救いと信じている。

信じれば、すべて事が足りる。
信じることで、すべてが解決される。
つまり、信じる者は、騙されるからである。

天国に入る必要も、極楽に行く必要も無いとは、考えない。
宗教団体に入会しているのと、生命保険に入っているのと、何の変わりも無いことを、知らない。
宝くじを買って、すでに当たったと思い込めば済む。

真剣に信仰に賭ける人は、すべての思考を停止して、教団に我が身を、預け切る。
私が恐れるのは、この思考停止である。

安心立命を、得るのではない。思考停止を、得るものである。
さらに、悪いことは、妄想の教義というものを、覚えて、あろうことか、それを、人に説くという、傲慢不遜な行為を、繰り返す。

一人で、していれば、事足りるのであり、一人でしているなら、私は、それを否定しない。

蜃気楼にあるところに、皆さん一緒に行きましょうと、言う、宗教の有り方に、誤りを見る。

福音宣教だの、布教だの、折伏だのという、精神的暴力は、他に無い。
無明の闇に、人を引きずり込むという、その行為に、誤りをみるのである。

死ぬまで暇つぶしとは、言え、あまりに愚かな行為は、まさに、宗教の勧誘である。
誰のためにしているのか。
相手の救いと、幸せのためにしていると、芯から信じていることに、私は、驚嘆し、大きな危惧を覚える。

時代は、いつも、激動である。
そして、時代精神は、いつも、新しい。

宗教が、一つの情報として、処理される時、人類は、始めて、生きるということに、覚醒する。

今、中世ヨーロッパの異端審判というものを、思い浮かべると、なんと、おぞましい、愚かなことをというであろう。
では、今の時代も、後々から見て、なんと、おぞましい、愚かな時代であろうと、振り返ること、必至である。

まさに、宗教が言うところの、今、今に永遠があるという言葉を、使えば、今、目覚めるべきなのである。

神仏は妄想である、ということに。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。