2008年08月07日

神仏は妄想である 108

浄土真宗では読経、儀式に偏重して、実地の求道を軽視してはいませんか。僧侶が色衣を着て葬式をすれば、極楽往生をさしてあげるように自惚れ、遺族のものもそれで浄土往生をしたものと安心しているのは、自他ともに間違いいではありませんか。聖人の真意は、歎異抄に「親鸞は父母孝養のためとて一遍にても念仏まをしたること未だ候はず」と、改邪抄には「某親鸞閉眼せば加茂川にいれて魚にあたうべし」とありますが、今真宗では実地の求道は指導せず、流れを汲むものはすべて信後のものと看做して、読経、儀式が真宗の全部のように誤認してはいませんか。
大沼法龍 昭和歎異抄

浄土真宗の僧侶が、自らの教団に、徹底批判する最初である。

上記を、読むと、何も浄土真宗に限らない。
日本の仏教は、今、皆、そのようである。
開祖の心意気などは、皆無である。

これは、江戸時代の三代将軍、家光のキリシタン禁止のための、すべの国民を、寺に登録させる、つまり、寺の檀家にするという、政策の御蔭である。
それから、仏教の堕落が、はじまった。勿論、それ以前からも、堕落していた。

要するに、将軍が、寺の金集めを指定してくれたのである。
僧侶たちの、堕落は、計り知れないものがある。

僧侶も、妻を娶り、家族を持ち、更に、子孫のために、財産を残すべく、セッセと金集めに奔走するという。
仏陀が、聞けば、泡を吹くような、行状である。

在家と、出家の区別も無いのである。
どこに、仏陀の仏教があるのか。

大乗仏典が、いかに、嘘まみれなのかは、彼らを見れば、よく解る。

上記の、文は、誰が読んでも納得するものである。

読経と、儀式に、堕して、今も、平然として、仏教と名乗り、平然として、暮らしを立てているという、仰天である。

あまりに、平穏無事であるから、最早、宗派の教えも、何も、忘れているようである。

勿論、ごくごく一部には、少しは、真ともな僧もいるが、それとて、少しは、真ともに見える程、日本の僧侶たちは、堕落している。

信長ならば、一まとめにして、火を放つだろう。
私も、そうする。

大沼法龍氏は、真宗だけではなく、すべての宗派に対しても、同じように考えていただろう。

聖人は法然上人の膝元で、たのむ一念の時、立ちどころに他力摂生の趣旨を受得したと書いてありますが、一念をはっきり語るものがいない。聖人が「一念といふは信楽開発の時こくの極意を顕し、広大難思の慶心を彰す」といわれたのは、実時でも仮時でもない、開発したときの味である。溺れていたものなら、助かったという自覚がある、後生の苦になったものなら、開発したという体験がある。後生の一大事になっていないものが、読書して了解しているのだから、いつとはなしに獲信したというのは、話がわかっただけで調熟と摂取の分際がわからないのだから、摂取されてはいません。

後生の一大事になってないいものが、読書して了解しているのだから・・・

正に、今の仏教は、読書の仏教であり、ハウツー物の、仏教書を読んで、了解している者、多数であり、更に、それらを、書くのは、仏教家ではなく、様々な分野の人が書いているという、有様。
皆々、言葉の遊び程度で、それを呼んで、感動しました等々の、言葉は、単に、読んで了解したという、程度で、何も、開発したものではない。

少しは、解ったというだけで、得心していないというのである。
調熟と、摂取の分際がわからないのだから、摂取されていません、とは、専門的、浄土真宗の教義にあるから、これを、説明しても、どうしようもない。

面白いのは、法然を上人とし、親鸞を聖人としていることだ。
真宗は、親鸞が開祖であるから、当然、親鸞に重きを置く。

聖人は第十八願の成就文の聞即信の一念で、無量永劫の解決がつく、唯信独達の法門を発揮しておらるるに、真宗では十劫の昔に助かっていることを喜べと、十劫秘事の異安心を鼓吹しているのは、聖人の真意を知らないのではありませんか。

この、十劫の昔に、助かっているというのは、すでに、弥陀の本願が発揮されて、救われているということなのだろう。
素人の私にでも、解ることである。
要するに、理屈である。

ここで、少しばかり注目する部分がある。

聖人はあれだけ難信の法を説いておらるるのに、真宗の道俗は誰一人として語るもののいないのは実地の求道がなく、実地の体験がないから語り得ないのではないでしょうか。難信易行が宗の根基で、易信易行の宗旨はありません。

易行道というが、実は、難信だという。
難信であり、易行なのである。

信ずるのは、難なのである。しかし、方法は、易い。

次第に、専門的になるので、このくらいにして、おく。

大沼氏の言いたいことは、現在の浄土真宗の堕落である。
その、堕落をそのままにして、寺を我が子に継がせ、宗旨の理などは、度外視し、安穏としている組織に、渇を入れているのだ。
しかし、その渇も、効き目が無い。
全く、無関心を装っても、いいのである。それは、檀家がいるからである。何の心配もいらない。十分、生活してゆかれる。
金が必要になれば、何とかカントかと、名目をつけて、集金するのである。

それは、今では、すべての仏教団体に言えるのである。

こんな、いい商売は、ありませんと、平然として、料亭で、宴会をする僧侶たちである。
どこに、仏陀の伝えたものがあるのか。
仏教という、宗教の更に、宗派の、軌道に乗っていれば、いい。
教団上層部、指導者が、決めた教義を、唯々諾々と承知し、ただ、それを、猿真似のように、伝えていればいいのである。

ホント、こんな良い商売はない。

末法というのは、仏教家たちに言えることで、一般の人には、全く関係無い。
これほど、救われない集団も、いないが、救われていると、信じているから、終わっている。

その、救われているとは、単なる、妄想であることに、気付かない。

兎に角、阿弥陀如来というのは、架空の存在であり、人の創作したものであることは、明々白日である。
その、本願云々という、お話も、いつまで、続くものか。

最早、時代は、その妄想を抜けて進んでいる。
もっと、マシな、妄想が、闊歩しているのである。

愛と調和のエネルギーとか、ね。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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