2008年08月05日

神仏は妄想である 106

なにごとも、心にまかせたることならば、往生のために千人殺せといはんに、すなわち殺すべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わが心のよくて殺さぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人、千人を殺すこともあるべし。
唯円 歎異抄

何事も、心の思うがままに、出来るならば、往生のために、千人を殺せといわれれば、殺すが、しかし、一人も、殺す因縁がなければ、殺すことは出来ない。それは、我の心が善であるからではない。殺せといわれなくても、百人、千人殺すこともある。
と言う。
つまり、人殺しも、因縁なのだという。

親鸞の教えを、書き綴った、名文である。

何故、このような言葉が出るのかは、親鸞の生きた時代を見ることである。

親鸞が出家して、比叡山に入ったのは、9歳の時、養和元年、1181年。
平家が壇ノ浦で、滅亡した時、13歳。
衣川で、藤原三代が滅亡したのは、17歳。
鎌倉幕府が成立し、頼朝を経て、実朝の暗殺された時は、47歳。
承久の変の時は、49歳。
内乱を見続けてきたのである。
更に、天変地異もあった。

人間とは何か。すべての宗教はこの問いを根本にもつが、とくに内乱とひきつづく乱世は、この問いを強く迫ったにちがいない。社会と人間のあらゆる矛盾が露呈するからである。そのなかでも最大の矛盾は、殺生をきびしく戒めた釈尊の教えを信じながら、陰謀や殺人や内乱のくりかへされてきたことであろう。こういう存在にとっても、救いはありうるのか。それとも末法の世と言われるとおり、人間にはただ絶望だけがあるのか。これが親鸞の抱かせられた精神の主題である。
亀井勝一郎 日本の精神史

時代は、いつも、激動の只中にある。
危機意識をもてば、いつの時代も、激動である。
平和ボケといわれる、現代の日本も、激動の時代の只中にある。

宗教は、その中にあって、何を提供できるのだろうか。
法然を、見て、親鸞を見るが、結論から言う。
彼らの、思想は、その後、見るも無残に変節した。

既成の、仏教団体の、伽藍と、形式を廃して、ただ、信心のみに、焦点をあてたのだが、それが、今では、既成仏教団と、同じく、伽藍と、形式に堕して、平然としている。

時代は、いつも、激動だと言った。
宗教家は、いつも、開祖の心を、思い、いつも、新鮮でなければならないが、浄土宗も、浄土真宗も、御覧の通りに、形骸化した。

後に、昭和歎異抄という、本を書いた、元浄土真宗の僧侶を紹介するが、内側から、徹底的に、宗門を批判している。

あらゆる、新興宗教も、必ず、伽藍を作り、要するに、立派な建物を作り、形式を作り、信者を、雁字搦めに、縛り、金を平然として、集める。

その、建物が立派であれば、あるほど、アホな人々は、納得して、金を教団に運ぶ。
そして、本部の地を、聖地というから、笑う。

要するに、人は、目に見える形で、安心するのである。
人は、見た目が九割であるというように、見た目からしか、入ることが出来ない。

ある教団の本部を見て、実に立派な建物であるが、その雰囲気、専門用語で言えば、波動の寒々としたものを、感じて、ゾッとしたものである。
その先は、信者でなければ、入られませんと、言われて、引き返したが、その中に、入る意欲は、なかった。

仏教とは、名ばかりで、教祖一家を、神のように崇めている。
驚いたのは、天狐が、教団をお守りしていると言う。
狐が、気の遠くなる年月、修行して、天狐になるという。あまりに、馬鹿馬鹿しくて、話にならない。狐に、守られていると、言うのであるから、狐の霊が、主導している、教団なのだろう。

その本部の建物の、上空に、教祖一家が、霊界なるものを、作り上げているのであろう。そこが、極楽だと、信じ切って。死んでも、救われないとは、このことである。
教団の信者は、死んで皆、教団本部の上空の幽界に入るのである。
哀れなり。

さて、親鸞の考えたところのものを、見渡す。

信仰にとっての最大の敵は、信仰する者同士の内部にある。或いは自己の内部にある。そこに生ずる破戒、あるいは自己崩壊はくりかへされていきた。それだけではない。仏教徒が仏教徒とが血を流しあい、迫害し、裁いてきたではないか。法然とともに流刑に処せられた親鸞は、この事実を忘れることが出来なかった。
亀井勝一郎

親鸞は、法然の教えを信じて、地獄に落ちてもいいという。何故なら、地獄こそ、一定住みかであるという。
これ程の、罪の意識、罪悪感というものを、親鸞は、何故、持つに至ったのか。

僧侶で始めて、妻を娶る親鸞である。
既成仏教団の、僧たちは、激しく攻撃したであろう。
ただし、彼らは、女犯を犯さなかったのではない。秘密裏に、女を囲う者、多数。
表向きは、独身を通すが、裏では、やりたい放題である。
その点から言えば、親鸞は、真っ当であった。

愛欲の大海に、沈みと、告白しているのである。
ただし、その自白に、酔うことが、なければ、良いのだが。

ここで、歴史を、逆戻りして、罪悪感、罪の意識というものが、仏教とともに、入ってきた、観念だということである。

日本の古神道には、清き、明るき、直き心のみがあった。
更に、ツミという言葉は、恵みの言葉だった。
海神、山神、わだつみ、やまつみとは、自然の恵みである。

ところが、漢語の罪という言葉は、全く、予想外の意味があった。

その罪は、仏教で規定されていた。
例えば、五逆といわれる罪は、殺生、盗み、邪淫、妄語、飲酒である。
出家者になれば、膨大な罪がある。

上記の、五つの罪さえも、誰もが犯す危険のあるものである。
乱世の世で、殺生などは、当たり前である。
邪淫を犯さない者はいないだろう。
そして、飲酒となれば。
在家信者にも、それは、要求された。

その、記された、罪から、罪意識が、更に、深まる。
そして、親鸞のように、罪人、罪人と、繰り返し言うことになる。

キリスト教も、兎に角、罪意識を抱かせる。
意識していなかった、ものまで、罪の意識を抱かせる。
そして、懺悔である。
ありもしない、原罪という、罪が、主イエスの十字架によって、赦されたという、誇大妄想を、展開し、信じる者を、雁字搦めにして、支配するという、手である。

更にあくどいことは、密室で行われる、人のセックスというものを、罪の意識に、育て上げるという、巧妙な手である。
人間の、真っ当な欲望を、罪と定めるという、狂いは、如何ともし難い。

古神道を、はじめ、多くの民族宗教、あるいは、伝統は、欲望を、恵みと、捉える。
それが、真っ当な感覚である。

宗教は、人間が犯すであろう、罪を、これでもかという具合に、探し出すのである。
それは、凡ての信者を、徹底支配するために、利用される。

親鸞は、
念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。
と言う。歎異抄

念仏するのではない。
念仏しようと思う心に、すでに、弥陀の本願である救いが、あるというのだ。

そして、もうひとつは、賜りたる信心である。
こちらが、信仰する、信心するのではない。
その、信心さえも、あちらから、与えられるものであると、言う。

人間が抱く様々な妄想のなかで、最も惑はしにみちたものは何か。妄想は煩悩に発するにちがいないが、煩悩から離れようとする信仰自体のうちに、実は最も深い妄想がひそんでいるのである。
亀井勝一郎

信仰という、ゲームと、考えうるとよい。
自分の心を、弄ぶという、実に愚かな、思考や、思索を、繰り返す。

例えば、罪の意識を、持って繰り返す、セックスほど、すこぶる快感なものはない。
何も、道具は、いらない。ただ、罪の意識さえあれば、通常のセックスの、何倍もの効果のある、性を楽しめる。

思索も、ある一線を超えると、堕落になるのである。

前頭葉の発達した、人間が考え出した、最も面白い遊び、それが、宗教である。

スポーツの楽しさは、ルールの中にある。
ルールのない、スポーツはあり得ない。

人間を、ある枠に収めて、そこでの、七転八倒を、楽しむという、実に、複雑怪奇な、遊びを、考えたものである。

それを、思索と呼ぶのか、私には、解らない。

言葉の遊びというものを、考え出した人間の性になったようである。
哲学とか思想も、然り。

私見である。
死ぬまでの、暇を潰すに、まあまあ、手頃なのかもしれない。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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