2008年08月03日

神仏は妄想である 104

阿弥陀仏の姿を、見る。
観無量寿経に出ている、その姿は、背丈が、六十万憶なゆたごうがしゃゆじゅん、という、想像を絶する高さである。
平仮名で書いた部分は、漢字であり、すべて、長さを表す語であるから、とてつもなく、大きい。大きいというより、想像だに出来ない。

ちなみに、なゆた、那由他とは、一千憶の数単位で、恒河沙、こうがしゃ、は、ガンジス河の砂粒の数である。
それを、由旬、ゆじゅん、の区分で、一千億倍の長さに並べただけの高さということになる。

インドの、壮大な数の想像である。

この、身体の容積は、眉間にある、白いホクロだけでも、スメール山五つの大きさである。

その身体は、八万四千の毛穴でおおわれ、全毛穴から、まばゆい光を放っている。
その光は、どんな微小な物も、隅々まで照らし出すという。
光を浴びて、浮かび出た、微小な物は、一粒一粒が、仏の姿に、変化する。

寺内大吉氏は、これを、以下のように、分析する。

突然、純粋なエネルギーの塊が誕生し、想像を絶する輝きが空間を満たす。この火の玉の宇宙が広がって冷却し、数分後には最初の物質粒子が溶鉱炉の中で凝結する金属粒子の滴くとなって現れる。

これは二千余年を経た現代の物理学者ジャストロウの「宇宙創成のすべて」からの引用である。

更に、続けて
散り散りになっている粒子は集合して、まず原子核となり、ついで原子になった。初期の宇宙を満たしていた高温度、目もくらむような輝きも弱まって、冷たい水素のおだやかな雲となる。水素雲の中では、巨大な銀河が形成され、それぞれの銀河の中では次々とおびただしい数の星が誕生する。これらの星の多くは惑星に囲まれている。そんな惑星の一つである地球上には生命が発生し、長い発展の歴史をたどって人類が出現した。

大多数の学者が 正しいと認める宇宙創世から進化への壮大な物語は、およそ二百億年に始まる。科学は聖書と異なり、この偉大な創成の原因を何も説明していない。宇宙の空間と時期とが始まって以来、そこで起こったすべての出来事は、最初の原因はわかっていないが、何かがもたらした壮大な結果なのである。

寺内氏は、
浄土の経典は科学書ではない。だが生命の本質を宇宙という大自然と直結してとらえている点で近代科学に近似するのであろう。しかし、科学が「わかっていない」という「この偉大な創成の原因」を浄土教は明確に教え説いている。
と、言う。

阿弥陀仏も、最初は、最初は、小さな惑星上の、微粒子の一粒に過ぎなかった。つまり、法蔵菩薩である。
それが、誓願が、満たされて、法蔵は、阿弥陀仏となり、一粒だった生命の核が、視界を絶する大きな姿に変身し、強烈な光を全身から、発するというのである。

ここから、
仏との対面において、ちっぽけな生命が巨大に広がってゆく。また、単なる生命の消滅であった「死」を超えて、仏の世界に往って生まれる「往生」という永遠性が与えられることになる。
と、寺内氏は言う。

さて、如何にも、最もらしいが、経典と、科学を結びつけて、云々するというのは、よくあることで、単なる、事後預言と、変わらない。
如何様にも、後で、解釈できるということである。

インド人の、妄想を、科学で、解釈、当ててみた。
また、それにより、飛躍して、死を超えて、仏の世界に生まれる、往生という、永遠性が、与えられるというのである。

科学を持ち出して、撹乱させ、経典の真実性を、言うのである。

科学者が言う
そこで起こったすべての出来事は、最初の原因はわかっていないが、何かがもたらした壮大な結果なのである。
という言葉に、宗教は、それぞれ、自らの神を、当てる。

お粗末過ぎるのである。

実証の科学を、持ち出し、それに、裏付けられているという、その経典、聖典の数々である。

勿論、科学が、まだ、何も成しえない時には、何も言わないのである。
科学が、実証を始めると、科学が、計り知れないところに、つけ込んで、我らの、経典には、それが、書かれているということになる。

追伸。
JA・パウルスという著者による、数学者の無神論という本は、科学からの、無神論の提言であり、実に、真っ当な感覚の、論理である。
いずれ、それも、紹介する。

宗教とは、如何様にも、解釈できるし、如何様にも、語ることが、出来る。つまり、何でもありなのである。神や仏を、信じるためには、手段を選ばないのである。何故か。何故、そんなに、人を騙したいのか。
これこそ、仏教が言う、人間の無明である。
嘘でもいいから、兎に角、安心したいのである。

生きるに、不安だから、何でもいい、安心させるものが、あればいい。
鰯の頭も、信心からと、昔の人は、言う。
信心してしまうと、気が楽だ。
何かに、お任せして、それに乗って行けばいい。
正に、大乗仏教である。

要するに、阿弥陀仏を、宇宙であるというのである。
それが、たまたま、インドの数の思想というか、インド人の妄想を、そのように解釈したのである。

ちなみに、科学者が、般若心経を、科学で説くいう、本なども出ている位である。

どんな、ファンタジーでも、御伽噺でも、如何様にも、解釈出来るのである。
桃太郎でも、一寸法師でも、浦島太郎でも、である。

朝日新聞、15日夕刊に、花園大学教授である、佐々木閑氏の、エッセイがあった。

仏教には「お経」というものがある。釈迦が弟子たちに語った、悟りのための手引きだ。今も、インド語、漢文、チベット語など、いろいろな言葉で書かれたものが残ってる。・・
これがすべて釈迦の言葉ならいいのだが、残念なことに、実際にはほとんどすべてが、釈迦の死後、長い時間の中で大勢の人たちがつくりあげてきたものだ。お経というのは、「釈迦の教え」というスタイルをとりながら、その実は、教え切れぬ無名の著者が自分の思いを説き表していく、その千数百年間にわたる活動の集積なのだ。大乗仏教も、その流れの中で現れてきた新しい運動だ。

その膨大な量のお経を調べると、古いものと新しいものが区別できる。そこでそれを時代順に並べてみれば、一番古いところにくるものが、釈迦に一番近いということになる。それが釈迦自身の言葉かどうかは不明だが、仏教のおおもとであることは間違いない。私が惹かれるのは、その時代のお経である。

実は、このような「お経の歴史」が分かってきたのは近代になってからのことで、それ以前は、「お経は全部、釈迦の教えだ」と信じられていた。全部が釈迦の教えなのに、比べると食い違う点がいっぱいある。今ではあたりまえのことだが、昔の人は困ってしまった。

そこで一番気に入ったお経を選び取り「私はこれを信じる。これこそが本当に釈迦の言いたかったことだ」とそれぞれに主張した。どれを選ぶかは人の個性によるから、結果としていろいろな流派が現れた。・・・一口に仏教といっても、内実は千差万別ということが分かる。・・・その「お経の違い」を正しく理解して初めて、仏教世界の全体像が見えてくるのである。

以上である。

異色の、神学者である、田川建三氏は、それで、仏教の教義は、支離滅裂であると、いう。
聖書批判も甚だしいが、仏教の教義を、そのように、言う人は、また、少ない。

しかし、仏教家は、また、面白いことを言う。
仏に至る道、八万八千の門がある。
どれでもいいのである。仏に行き着けばである。

矢張り、鰯の頭も信心からである。信じてしまえば、また、信じさせてしまえば、何とかである。
更に、浄土門を、眺めて見る。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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