2008年08月02日

もののあわれ264

惟光尋ね聞えて、御くだものなど参らす。右近が言はむ事さすがにいとほしければ、近くもえ侍ひ寄らず。「かくまでたどりありき給ふ。をかしう、さもありぬべきありさまにこそは」と、おしはかるにも、「我がいとよく思ひよりぬべかりし事を、譲り聞えて、心ひろさよ」など、めざましう思ひをる。


惟光が、探し出して、御くだものなどを、差し上げる。
右近に会ったら、聞かれるだろうと思うと、気の毒で、お近くに、居候もできない。
こんなにまで、うろつき回るということ、実に、また、面白いのである。
我が君を、こんなに、熱中させるほどの、女かと、思われて、自分が、手に入れることのできたものを、お譲りしたという気持ちは、度量が広いと、呆れ返る、思いでいる。


めざましう思ひをる
これは、作者の感想である。
自画自賛していると、作者が、呆れるのである。
あたかも、本当の話のように、である。


たとしへなく静かなるゆふべの空をながめ給ひて、奥のかたは暗うものむつかし、と、女は思ひたれば、端のすだれをあげて、添ひ臥し給へり。夕ばえを見かはして、女もかかるありさまを、思ひのほかにあやしきここちはしながら、よろづの嘆き忘れて、すこしうちとけゆくけしき、いとらうたし。


譬えようもない、静かな夕方の空、目をやり、部屋の奥は、気味が悪いと思う女なので、君は、縁側に近い、御簾を巻き上げて、横になった。
夕映えに、映える顔と顔を、見合って、女は、思いがけないことと、思うが、辛さも、苦しさも、忘れて、少しづつ、大胆になってゆくところが、可愛いと思うのである。



たとしへなく静かなるゆふべの空
言葉が、見いだせないような、静かな夕空である。
思ひのほかにあやしきここちはしながら
このような、心境は、どんな心象風景なのだろうか。
思いもよらない、あやしき心地という。
怪しい、とも、妖しいとも、書く。

うちとけゆくけしき
気色という言葉は、心の様を言う。
風景の、景色ではない。
心の気色である。
しかし、風景の景色というものも、気色と書くのである。
つまり、目の前の、景色も、心の中に写る気色というものに、なって、はじめて、景色が、気色になるのだ。

二つの意味を、兼ねる時に、けしき、と書く。


つと御たかはらに添い暮らして、物をいとおそろしと思ひたるさま、若う心ぐるし。格子とくおろし給ひて、大殿油参らせて、源氏「名残なくなりにたる御有様にて、なほ心のうちの隔て残し給へるなむつらき」と恨み給ふ。



お傍に、一日中いる間、何となく、怖そうにしている様などは、子供のようで、いじらしいと思う。
源氏は、格子を、早めに下ろし、燭台に火を点させて、言うままになっているのに、名を言わないとは、ひどい、と、恨み言を言う。



「うちにいかに求めさせ給ふらむを、いづこに尋ぬらむ」と、おぼしやりて、「かつはあやしの心や。六条わたりにもいかに思ひ乱れ給ふらむ。恨みられむも苦しうことわりなり」と、いとほしきすぢは、まづ思ひ聞え給ふ。なに心もなきさしむかひを、あはれとおぼすままに、「あまり心深く、見る人も苦しき御有様を、すこしとりすてばや」と、思ひくらべられ給ひける。


宮中では、どんなにか、探していることだろうと、思う。
使者に当たった者は、どこを、探しているのだろうかと。
そのように、思えば、我ながら、変ではあると、思うのである。
六条の御方も、どんなに、案じておいでであろうか。
恨まれるのは、苦しいことだが、まず、六条の方を、思うのである。
目の前の、女が、何の躊躇いもなく、向かい合っているのを、見て、可愛く思う反面、あのお方を、お相手するのは、息苦しく、感じると思う。
それを、少し取り除けばと、思いつつ、目の前の女と、比較するのである。


うち、とは、宮中、つまり、天皇である。源氏の父帝のことである。
そして、その命を受けた者たちである。

隠れて、女と、一緒にいるという、妖しい思いを、楽しむのである。
しかし、それも、つかの間である。
物語は、一気に、妖しくなるのである。

もののけ、というものが、登場する。
それは、単なる、幽霊などではない。
女を、死に至らしめる、もののけ、である。

そこまで、至らしめるために、今までの、準備があった。
作者は、すでに、その結末を知って、ゆるやかに、物語するのである。

作者とは、語り手である。
紫式部は、語り手の、手法を持って、物語を書く。
以後の、小説、物語は、それを、手本とするのである。

また、多く、主語を省くという、物語の伝統を、築いたとも、言える。
心の様は、読み込んでゆけば、自然に理解出来るようになっている。
しかし、これは、日本文学の、特徴とも、言えるのである。

現代訳する時に、これは、誰の心境だろうと、思われる箇所、多々あり。
しかし、自然に、それが、理解されるのである。
それは、歌道の、教養のゆえである。

文学、とりわけ、日本文学とは、歌道の、学びが、必要不可欠である。




posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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