2008年08月01日

神仏は妄想である 102

凡ての他力門の教えは、罪の場から始められる。しかも罪という観念は、何も抽象的な概念ではない。それ故他人の罪悪を挙げて、詰るがごときなまやしさいことではない。自分自らの現下の罪に、一切の注意を集めることである。罪とは「我が罪」ということに外ならぬ。自分の罪以外に考える余地を残さぬ時が、始めて罪なるものがまともに考えられる時なのである。
柳宗悦

上記、真っ当な感覚だろうか。
キリスト教の原罪という、罪意識も、実に、妄想であり、支配する者のために、あるような、教義である。
それは、アグスチヌスという、教父といわれる者に、よって成った、観念である。教父とは、教えの親という意味であり、カトリック教義の産みの親である。
以前に、キリスト教の時に書いたので、もう一度、読み直してほしい。

この罪意識を、持つことによって、信仰が深まると、考えるところが、病である。

何故、それほど、自虐的に、ならなければならないのか。

さらに、こうも、続ける。
それ故罪の意識は、自分が誰よりも罪深い者だという懺悔を伴うものでなければならぬ。この世にどんな悪逆な者がいようとも、自分の方がそれにも増して罪深い者だということが気付かれる時、始めて罪の意識が真実なものになるのである。

これを、多くの宗教家を、はじめ、識者、仏教擁護者、浄土門帰依者等々、さらに、評論、作家などの、仏教の太鼓持ちが、語るという、愚劣である。

何故、そんなに、我が身を責めることが、必要なのか。

原罪という観念に至っては、我知らずの、生まれたことに、対する罪意識である。
これは、健康的なことなのか。

果たして、仏陀は、そのようなことを、言ったのか。そのように、教えたのか。

生まれながらに、罪ある者という、その考え方は、一体、どこから出てくるものなのか。

太宰治の、生まれて済みません、では、ないだろう。
ただでさえ、人間が生きることは、苦悩である。
これさえも、私の観念である。

それに加えて、更に、自らを罪人だと、責めよというのか。

長年、宗教に関わって真っ当に生きる者、この罪意識によって、病むのである。無用の病である。

更に、この罪意識を、深めて、ある地点に達すると、顛倒が起こるという。
その自分に、見切りをつけて、全き、懺悔に至るのである。
そして、世界の光景は、一転して、我を捨てるという。
そこに、その捨てた時に、無限大なるものが、開ける。それが、弥陀の世界、弥陀の本願である、救いであるというのだ。

後に、禅宗の時にも、考えるが、兎に角、自分を捨てることだと、解くのだ。

心理学から、見れば、この自分を捨てるというのは、俗に言われる、客観性というものなのであろう。いや、彼らは、それ以上の境地だといううだろう。
そして、その境地の、解らない者には、解るわけがないとも、言うだろう。

よくよく、考えて欲しい。
人間が、本当に、客観的になれるものだろうかと。
客観的に、物を見るという場合も、主観の内にあるのである。
つまり、自分の意識から、逃れて、外の意識になることは、出来ない。そし、それが、出来るというなら、それは、精神疾患である。

人間は、絶対主観の、何物も持たないのである。

境地という、境地は、単なる妄想である。

勿論、何事かを、知るという、瞬間がある。
その、瞬間に、悟りという言葉を、当てはめるならそれでもいい。
しかし、瞬間に知ることは、更にまた、瞬間に知ることを、続ける。

禅で言う、大悟という、境地があるというが、もし、本当に、そのような、大悟があれば、精神疾患というしかない。

つまり、宇宙と、一体に成ったとか、真理と、同体になったとかいうことである。
勿論、我が内に、宇宙的な働きがあると、感じることはある。だが、それが、宇宙との一体感云々ということになれば、妄想と言うほかはない。

仏陀が、悟った時に、仏陀の自我は、地球を越えて、宇宙に飛び出し、さらに、銀河系を、抜けて、さらに、宇宙を越えて行く。そして、大宇宙と一体になったという、アホがいるが、確かに、そのように、比喩として、語られることは、理解するが、だから、それが、何だというのか。

仏陀は、それで、ハイおしまいとならなかった。
仏陀は、人々に、生活指導を始めたのである。

すべては、心が作り出すものに、左右されている。
まず、その心の整えることが、大切である。
静かに、息を吸い、静かに、考えるべきだ。
心を、整えるということは、息を整えることである。
そのように、実際的な、ことを、教えたのである。

宇宙と一体になる等々の、お馬鹿な話はしなかった。
また、大乗仏典にあるような、誇大妄想も、言わないのである。

一体、このちっぽけな、人間というものに、何が出来るのか。
この人間は、生きるということを、徹底的生きることなのである。そして、徹底的に生きるとは、何かということを、問い続けて、仏陀は、生活指導をしたのである。

その良い例が、難行苦行というものを、捨てた。

自分を、自虐するものを、捨てた。
更に、自分の心を、自虐する思いを、捨てよというのである。

自分が、自分を苛めて、どうする。

それが、日本にての、浄土門になると、罪悪感を持て、懺悔することによって、世界が一転して、仏の世界が、広がるということになる。
これは、仏陀の教えの、変節である。

堕落である。

兎も角、そこまで、追い詰めて、追い詰めて、もうどうすることも出来ないという、状態に至って、救いの道が、見いだせるというのは、洗脳である。
自分を捨てて、弥陀の本願に頼るしかないという、その、根性は、どこからのものか。

更に、その弥陀というもの、人間の頭で、捏ね繰り回して、作り上げた妄想の存在である。

これを、迷いと言わずして、何を、迷いというのか。

親鸞に帰依する、知識人は、多い。
あれは、誤魔化しである。

親鸞は、愛欲の大海に溺れ云々というが、直訳すれば、セックスしたくて、セックスしたくて、たまらないというのである。
それなら、セックス三昧で、いいではないか。
ところが、親鸞の、偽善は、そんな罪深い者であるからこそ、弥陀の本願があるという。

何故、親鸞は、僧などやめて、一般人として、普通の生活をしなかったのか。
それは、名利の大山に迷いというのである。
つまり、有名に成りたいのである。

アホか。

そのような者だからこそ、弥陀の本願があるのだと。
いい加減にしろ、というだ。

私は、罪人、セックスしたいし、有名にもなりたいし。
なら、そうしたらいい。
しかし、僧として、妻を持って、周囲を、仰天させて、更に、僧を続けるという。然、有名にはなるし、妻も得られて、セックス出来るし。

更に、働かず、自分のこと、罪深さを、語り語りと、信者を集めて、一派をなしたという、結果。

さて、親鸞に帰依する者の、顔が見たいものである。
更に、面白いのは、その親鸞の行状に、激怒した、僧僧僧たちが、今は、皆、セックスしたいからと、妻を持つのである。

それが、日本の仏教である。

仏陀曰く。
僧、修行者は、女の膣に、ペニスを入れるな。

終わっている。
何が。
日本の仏教、僧たちである。
最後の砦の禅宗まで、今では、セックス三昧である。

その点、空海は、頭がいい。
女に触れるな、しかし、稚児に触れるのは、いい。
穴は穴でも、別の穴は良い。
稚児経にて、稚児の愛し方を、指南する。
空海の作なのか、どうかは、知らないが、その位の、度量は、空海にはある。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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