2008年07月31日

神仏は妄想である 101

実はいつの時代だとて、末世でない時代はない。どの時代にいようが、まさにその時代が末法の世であり、極悪の世である。如何なる時世に住むとしても、これい以上の劣悪な時世があろうはずはない。この意識なくして宗教は成り立たぬ。
柳宗悦

最もなことである。
この世は、地獄である。
しかし、この意識なくして、宗教は、成り立たぬというのは、認識不足である。
宗教があっても、なくても、この世の姿に変わりない。逆に、宗教によって、益々、この世は、劣悪になっているのである。

さて、仏教徒が言う、末法とは、何か。
それは、中国と、日本仏教のみが、言うことであろう。
何故なら、末法思想は、中国から起こったからである。

中国の、仏教家、慧思、えし、によって、成ったものである。
西暦、500年代の人だ。

その思想は、仏陀の死後、500年間は、仏説が正統に実践される、正法の時代。
以後の、千年間は、仏果と、仏証を体得する者は皆無となるが、教えと、行法だけは、存続する時代。像法の時代という。
仏果とは、修行を積んで得られる成仏のことである。

そして、次の時代が、末法である。
つまり、仏陀の死後、千五百年後から、末法の時代となるというものである。

しかし、その根拠は、無い。全く、思いつきとしか、言いようが無い説である。

それを、日本の仏教家たち、すべてが、無反省に、取り入れた。

末法とは、仏法の滅ぶ時である。
その、滅びる時に、仏法としての、新仏教が、起こるのだが、まともな神経なら、滅びる時代の、仏教が、何故、起こるのかと、疑問に思う。
しかし、彼らは、平然として、末法思想を、掲げているのである。

これも、一人相撲であると、言っておく。

ちなみに、親鸞の和讃にも、歌われる。

釈迦の教法ましませど
修すべき有情の無きゆえに
悟り得るもの末法に
一人もあらじと説き給う

と、法然が説いたと、歌う。

だから、他力信仰なのであるという、言い分になるが、いい気なものである。

法然は、我が事を言う。
我はこれ烏帽子もきざる男なり、十悪の法然房、愚痴の法然房が、念仏して往生せんといふなり。

ただし源空ごときの玩愚のたぐひは、更にその器にあらざる故に、悟り難く惑い易し。

これが、親鸞になると、益々、切迫して、
誠に知んね。悲しき哉、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことをたのしまず、恥ずべし、痛むべしかな。

書き写すのが、ほとほと、嫌に成る程の、言葉である。

自分を、愚鈍だの、愚痴だの、しまいに、十悪の者だのと、何を、酔っているのだろうか。

いや、彼らに言わせれば、衆生は、凡夫は、酔狂の如し、という。空海の言葉である。
凡夫の心は、物狂い、酒に酔いて、善悪につけて、想い定めたる事なし、となる。

自虐も、ここまでに至れば、立派な、ご病気である。

あの、最澄まで
是において愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、低下の最澄
であるから、やりきれない。

偉い人は、謙虚になるというが、これは、謙虚ではなく、鼻持ちなら無い、顕示欲である。

こちらが、具合が悪くなる。いや、胸糞が、悪くなる。

いずれにせよ、自作自演の、下手な芝居を、見ているような、気がする。

それを、更に、人に説くという。
この、自虐を、人に説いて、人々を、抑鬱に追い込むのである。
そして、最後の手は、念仏により、救われると言うのである。

これを、迷いと、言う。

救いようのない者、救われざる者、アホ、馬鹿、間抜けを、だからこそ、救う弥陀の本願である、念仏。

ここまで、追い込んで、強迫し、更に、強迫観念を、植え付けて、念仏させる。
この、強迫を、今も、持ち付ける念仏宗である。

更に、言わせてもらえば、死後も、その強迫観念を、持ち続けて、念仏を称えて、さ迷う霊、霊、霊である。

成仏も、往生も出来ずにいる面々である。

何故なら、成仏も、往生も、単なる観念であるからだ。

霊は、成仏も、往生もしない。
次元移動をするだけである。
その、次元移動を、妨げるものは、仏教の、胸糞悪い、観念である。

ただし、否定はしない。
時代性と、時代精神というものがあるからだ。
その時代であるから、善しとする。
しかし、現代では、最早、単なる、繰言である。

だから、私は、文学として、尊重する。

世阿弥の、花伝書を、文学として、貴んでも、拝むことしない。
世阿弥を、超越した者として置かない。
それと、同じである。
もし、誰かが、世阿弥を、神として、宗教を建てたら、アホと思うであろう。

ところが、念仏は、ついに、宗教となっているという、仰天である。

信仰とは、極めて個人的情緒であるから、個人的な、営みの中で、一人で、成しているうちは、いいが、それを、他人に説くということになると、それは、甚だ迷惑であり、小さな親切は、大きなお世話になる。

この、罪意識というもの、宗教の、定番である。

キリスト教も、最初は、罪意識を、強烈に植え付けることから、はじまる。
罪人だから、救ってもらわなければ、ならない。
そのための、主イエスの十字架である。

この、罪悪感というもの、何ゆえのものか。
それは、人間を支配するのに、手っ取り早いのである。
自らを、責めさせ、その、責めが大きければ、大きいほど、我の意識を、厭い、何かの手に委ねようとする。
特に、愚かな者は、そうである。

そして、嵌る。
嵌ると、支配者の思う壺である。
すると、如何様にも、騙せる。
とこが、悪いことに、騙すという意識が無い宗教家がいる。
法然である。

本当に、信じてしまったのである。

この、信仰を、蒙昧という。
つまり、さ迷うことから、解放された途端に、更に、大きく、迷いの道に、入り込んだのである。

頭脳明晰も、こうなると、手がつけられない。

浄土門の道においてはただに自分が悪いということだけではなく、自分こそ悪しき者、自分独りが悪しき者だと分かりきることである。だから全く出離の縁がないと言い切るより他に言いようがない。ここまで達してのみ、またここに徹する時のみ、始めて罪の意識となるのである。
柳宗悦

上記、マジである。

このように、書く、書ける、ということが、最早、私にすれば、嘘である。

こんなことを、書ききれないのである。

鬱病患者が、自分独りが、悪いと、考えて、自滅を願うのである。
兎に角、自分が悪いと責める。責めて、責めて、責めまくる。
大鬱という、病である。

すべての、宗教に言えるのである、この罪悪感という、歪な感情。
それを、指導者は、セッセと、信者に植え付ける。

さらに、悪いことに、一番、弱い部分を、狙う、
欲望である。
誰もが持つ、健全な、欲望を、罪として、認識するという、呆れた行状である。

それは、親鸞を、見れば、良く解る。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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