2008年07月30日

神仏は妄想である 150

生より死にうつると心うるは、これあやまり也。生はひとときのくらいにて、すでにさきあり、のちあり。
道元


生と死を分けて考えてはいけない。その事実を事実として徹底的に受け入れてしまえ、と道元は繰り返し言います。それは何故か。人間は生きている状態から、死んでいくという別の状態へ移っていくのだと考えるから誤りが生ずる。これは、いつも道元が好んで用いる考え方です。
栗田勇

春は春であって、春以外のものは何もない。秋は秋というもので、これが移っていく、つまり時間的な経過によって変化するということはない。春は春のうちに春以上のものがある。つまり空がある。花が咲き、鳥が歌うという現象の奥に、目に見えないある宇宙、絶対的な実相がある。
栗田勇

空という、実相というものがあるということを、言うのであろう。
それは、理解する。

その、空という、実相が、目の前の花になり、鳥が歌うということである。
それも、理解する。


それでは、もののあわれについてで、紹介した、古今集の仮名序を、再度見る。

和歌、やまとうたは、人の心を種として、万、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事・業しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひだせるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして、天地、あめつちを動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士、もののふの心をもなぐさむるは、歌なり。

とうであろか、私は、こちらの、心象風景を取るものである。

空とか、実相などという言葉はない。
この世の生きるものに、限りない慈愛の風景を抱くのである。
歌の道。
日本の歌道は、すでに、それらの、理屈を、超えていたのである。


そこで生は、「ひとときのくらい」だと言う。くらいというのは現象、位相のこと。ひとときというのは、しばらくの間という意味ではなく、全体、まるまるさそれで全部の時、つまり永遠のいまの意。生は生というものでまとまった様相であり、永遠の変わらぬ姿である。
だから、生きているということは、死と比べて生きているということではない。生きているということの中には、絶対的な今しかない。あるいは生以上のものしかない。空しかない。
栗田勇


歌道では、空などとは、言わない。
今、目の前にあるものを、慈しみ、歌い上げる。
それだけで、いい。
この世の、すべてを、受容する。

あえて、そのものを、超えたところの、空とか、実相などは、必要ないのである。

更に、言えば、絶対的な今、生以上のものしかないと、いうが、人は、確実に死ぬのである。

容赦なく、死ぬ。
必ず、死ぬ。
生が、今しかないというのと、同じく、死も又、今しかないという、その、死を、人は、確実に迎える。

理屈を言うのではない。
だから、それが、何だって言うのだということになる。
つまり、それは、迷いなのである。

生きとし、生ける、いづれか歌をよまざりけり、という方が、やさしいのである。
優しいのである。

人命とは、呼吸の間である、などと、アホにことに、感心しているより、歌の一つでも、詠むことである、と、私は言う。

吸う息、吐く息の間に、命というものがあるなどという、浅はかな、言葉の世界に酔っているうちは、悟りなど、開ける訳が無い。

明日とか、やがてそのうちということはない。今日の今、せっかくの今この今を、仏道に、つまり真理の道に身を投げ入れて、いつのときがあるだろうか。この覚悟が生死を超えます。
栗田勇

栗田氏は、道元を、理解しやすいように、紹介する。
私は、栗田氏の、文章に対して、敬意を表する。

さて、真理の道に、身を投げ入れてというが、人には真理というものが、人の数だけあるということを、知らないらしい。
仏道を、真理とは、笑わせる。

たかが、仏の道である。
たった、一つの道である。
それ以外に、真理というものが無いというならば、それは、浅はか、愚かというものである。

道元が、芸術家であれば、許せる。

松尾芭蕉は、今日の発句は、今日の辞世という心持で、俳句を、詠む。
それならば、おおいに、納得する。

歌は、すべて、挽歌である。
皆々、歌詠みは、その心持で、歌を詠む。
そこに、この人の世の、儚いという、明確な、意識がある。
儚いとは、はかないのであり、あはれ、なのである。

必ず朽ちる肉体を、持つ人間の、そのままの、姿をこそ、見つめ続ける行為こそ、真っ当な、生きる道であろう。
この世は、無常でよし。
儚くて、よし。
あはれ、で、よし。
生死に、七転八倒するも、よし。

息切れれば、死ぬ。
死人に口なしである。それで、よし。

問答無用に、人は死ぬ。
それで、よし。
言うことも無い。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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