2008年07月21日

神仏は妄想である 141

それにしても道元の教行は、誰にでも堪えうるものなのであろうか。禅堂に閉じこもって坐禅をひたすらはげみ、日常の生活をきびしく規制してゆくことは、ただ選ばれた出家にのみゆるされるのではなかろうか。在家の俗人がこれに従ってゆけるかという疑いが起こる。
亀井勝一郎

仏法を会すること、男女貴賎をえらぶべからず。
ただこれこころざしのあるなしによるよるべし。身の在家出家にはかかはらじ。
弁道話

その後、15年後に書かれた、出家という巻には
あきらかにしるべし。諸仏諸祖の成道、ただこれ出家受戒のみなり。諸仏諸祖の命脈、ただこれ出家受戒のみなり。いまだかつて出家せざるものは、ならびに仏祖にあらざるなり。仏をみ、祖をみるとは、出家受戒するなり。

永平寺に、籠もって以来、道元は、出家道だけを、認めるようになった、ようである。

結果
世をすてば世を捨ツベキなり。
隋聞記には、明確にしてある。

これは、仏教の修行者の、根本的行為である。
世を捨てる。捨てなければ、観えないのである。
釈迦が、世のすべてを捨てて、成道したように、世のあらゆる、桎梏から逃れることこそ、仏陀への道なのだという、確信である。

そして、道元は、それを、実行した。

法然、親鸞、一遍における、念仏の救いというものと、あまりにも、その格差が大きい。
共に、男女貴賎を選ばずというが、両極端である。

道元の時代は、親鸞の晩年であり、二人は、逢うことがなかった。
「春の田の蛙のなくがごとし」という、念仏により、救われるという、念仏宗に対して、道元は、明確に、ありえないと、言うのである。
それは、釈尊の道ではないし、それによって、救いなど、あろうはずもないと。

人間は戒律によってきびしく規制されなければならない。そうでないかぎり、際限もなく甘えるからだ。戒律の厳守など、たとえ不可能でも、可能にするように努めるのが修行だ。
亀井勝一郎

成し難き事なりとも、仏法につかわれて強いて是をなし
隋聞記

すべてを、捨てて、仏の家に、入らなければ、ならないのだ。
すべてを、捨てた時点で、すでに、修行の大半が終わるとも、考えられる。

勿論、現代の、道元門の、皆々は、念仏宗のように、ゆるやかになっている。
しばしの、厳しい修行を終えると、念仏宗のように、緩やかに、僧を続けられる。
勿論、堕落である。

ちなみに、仏陀は、男女貴賎を選ばすである。
後に、女に対する、差別は、中国仏教により、生まれた新しい、教えである。
儒教思想と、あいまり、男尊女卑の思想が、仏教に入ったのである。

勿論、大乗仏典にも、差別がある。
いずれ、大乗仏典に関しては、書く。

兎に角、道元は、今までにない、仏道修行を立ち上げたということである。
只管打坐と、心身脱落である。

修証はひとつにあらずとおもえる。すなわち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆえに、初心の弁道すなわち本証の全体なり。
弁道話

修とは、修行のこと。
証とは、悟りの境地。

普通は、修行するということは、あくまでプロセスであり、その向こうに結果としての悟りがあると考えます。道元は、道を探り、悟りを求めて坐禅をするという、そのプロセス自体の中に、すでに悟りがあるという。「修証一如」、つまり修行することと悟りを開くことは一つである。
初心の坐禅も、じつはそのまま、丸ごと本当の悟りそのものが実現しているといっていい。前後の時間や順序、因果を考えてはならない、という。
栗田勇


真の坐禅は何かを期待してするものではありません。坐禅そのものが、すでに、悟った仏の境地そのものなのだから、坐禅ということのうちには、すでに悟りそのものがある。修と証は二つではなく、前後関係、因果関係はない。
栗太勇

ここである。
禅というものの、魔境がある。
実に、詭弁である。

それでは、日常生活のすべてが、禅である。
それは、そのまま、仏を生きているのである。
特別な修行などしなくてもいい。ただ、いつものことを、いつも通りに、行っていればいいのだ、という、言い方も出来るのである。

禅の、この手の、説教には、十分、注意する必要がある。

仏の悟りから離れようのない修行がすでにあるのだから、本来成仏をまるごとそなえている初心者の求道も、そのまま、完全な本格的な悟りとして坐禅のうちに実現されるのである。
栗田勇

このように、耳障りの良い言葉が、続々と登場するのである。
禅魔の言葉である。

要するに、思い込むことである。
勿論、禅者たちは、いや違う、言葉では、いい表せないものであると、言うだろう。
考え抜いた先の、屁理屈が、これである。
おおよそ、仏教というもの、ここ、ここに至るのである。

念仏だけで、救われる。坐禅をする行為自体に、仏、悟りというものがある。題目によって、菩薩となり、仏法の実現が成る、等々。
そこには、大乗仏典の、屁理屈の理論が、溢れている。
仏陀の手から離れた、到底、信じがたい、仏法というものの、教えである。

こうして、迷いの道に入り込んでいることを、勿論、誰も知らない。
それが、道だと、思い込むのである。
仏への、道である。

その、仏というものの、観念は、妄想である。

人間は、人間であり、仏という、妄想の観念がなくてもいいものである。
人間は、霊であり、魂である。
仏とは、あくまでも、観念である。

仏陀の、救いとは、ただ、一つ、二度と、この世に生まれないということである。
仏になるのではない。
この世に、生まれないことが、救いであると、明言している。
仏になれば、二度と、この世に生まれないと、仏陀は、言うが、仏という観念ではない。更に、悉皆皆仏という、大乗の考え方もない。

皆々、仏性を宿しているなどとは、仏陀は、一言も言わない。

言葉の世界に遊び、その気になっている様は、無明である。
彼らは、自分たちは、無明ではないと、思い込むのである。
それ以外の、衆生が、無明の中にいると、信じるのである。

そう、彼らも、そのように、信じているのである。
我らは、智慧を得て、衆生は、無明であるという、信仰である。

私は言う。
単なる、言葉遊びと、坐禅などして、それこそ、悟りを、行為していると、信じ込んでいるだけの話で、それは、たんなる妄想である、ということ。

勿論、一人で勝手にやっているならば、何も言うことは無い。
個人の自由である。

世に、その迷いを撒き散らさないことである。

そして、仏法の太鼓持ちをして、識者や、作家どもが、仏教を語るのは、芸術作品が書けないのであり、手っ取り早く、名利を得て、金になるからである。

ある一定の、読者というものがいる。
迷いたくて、そのような、本を読み漁る、迷走志願者がいるのである。
そして、少しばかり、理屈を覚えて、悟りというものを、理解したような気になっている。

実に、馬鹿馬鹿しい。
話にならない。
精々、一億年ほど、転生を繰り返すのであろう。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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