2008年07月20日

神仏は妄想である 139

口声ひまなくせる、春の田のかえるの昼夜になくがごとし、ついに益なし。

口声、くしょう、とは、念仏である。
念仏をひまなく称えているのは、春の田圃で、蛙が夜も昼もギャアギャア鳴いているようなものだ、というのである。

更に、
又、読経・念仏等のつとめにうるところの功徳を、なんじしるやいなや。ただしたをうごかし、こえをあぐるを仏事功徳とおもえる、いとはかなし。仏法に擬するにうたたとおく、いよいよはるかなり
と、言う。

読経や、念仏に、称えるだけで、功徳があると、教えたのは、大乗仏教からである。
その、経典を読経することにより、何の功徳がありますと、その経典に書かれるという、具合である。

これは、徹底的に、念仏宗、つまり、浄土門を否定する。
春の田の、蛙とは、よくぞ、言ったものである。

それでは、題目も、当然、秋の畑の、コオロギのようなものだろう。
称えるだけで、功徳があると、教える者も、どうかしているし、また、それを、信じる者も、どうかしている。

しかし、念仏も、題目も、坐禅も、信じてしまえば、一番となる。
それが、唯一、一番であるというのは、宗教を、信じている者の、最も、陥りやすい、気分である。
私が、一番。
私の信じる神様、仏様が、正しい。
そういう人には、話など出来ない。
甚だしいのになると、他の宗教は、まだ、その段階に来ていないのだと言う。
自分の、信じているモノが、一番であると、思い込む。
勿論、それだから、騙される。

信じる者は、騙されると、大昔から、決まっている。

明晰な、道元も、そのように、坐禅が一番であると、信じきった。信じきると、強い。盲信、狂信であるから、他を受け入れないのである。
それでは、何故、信じきったのか。
それは、出会いである。

中国では、最初、禅宗ではなく、坐禅宗と、呼ばれた。
達磨大師から、受け継いだ代々が、坐禅を第一として、修業するからである。
その修行僧を、バラモンと、呼んでいたのである。
まだ、仏教を知らない。

達磨から、釈迦へと、遡る唯一正統の禅ということで、道元の師事した、如浄まで、続く。そして、道元が、師匠から、正法を継いだと、信じた。
正統的な、後継者というのである。

道元は、曹洞宗などという、宗派を名乗らない。
禅は、釈迦の正統の、修業なのであるという、確信である。

正しい仏法である。
これが、曲者である。
皆々、正しい仏法と、言うのである。
特に、大乗仏教は、そうである。

偽物ほど、正しいとか、正統を、強調する。

鎌倉時代の、新仏教は、日本的仏教の、宗教であり、仏陀とは、全く関係が無いものである。選択仏教というが、それも、大乗という、偽の仏教からのものであるから、矢張り、偽である。

このころの、奈良仏教は、腐敗の限りであり、それに、対抗して、鎌倉仏教が現れたのであるが、いずれにせよ、腐敗する。
今も、見ての通りである。

さらに、驚きは、僧以外の、信徒の団体の、仏教系の、宗教団体が、大手を振って、渡り歩いていることである。
更に、それから、政治まで、食い込むという、愚かさである。
仏陀は、弟子たちにに、一切の、政治的行動を、禁止した。
関わっては、駄目だというのである。

それは、実に、正しい、人の師としての、言動である。
修行者は、政治に関わってはならならない。

しかし、見よ、日本の宗教団体、更に、新興宗教団体は、政治家まで、擁立する。
そして、堂々と、仏法を掲げるのである。

教えでは、救いようがないから、政治に関与する。
団体の代表者も、極楽などに行けるとは、思ってないし、また、行けない者である。信者を、どうして、極楽に、導くことが、出来るだろう。

宗教の教えも、主義と、何なら変わらない。
共産、社会主義と同じく、理想、妄想、蒙昧、そして、無知である。

政治家も、票が欲しいために、俄か信者になるという、愚劣。
政党を持つ、巨大宗教団体もあるが、仏陀が、聞いたら、泡を吹く。
それらが、仏法である、仏意仏勅の法華経の仏法であるという。
仏陀、最後の教えである、最高の法華経と、信じ込んでいる。
今では、大乗仏典は、すべて、創作であると、解っていても、である。

創作の、仏典を、様々に解釈し、更に、妄想逞しく、小難しい教義、教理、教学なるものを、創作して、あたかも、有るものの如くに、信者に、学ばせるという、無明である。

全く、根拠が無い。
道元も、全く根拠が無いものを、信じてしまった。
勿論、それで、本人の、表現欲求が満たされて、自己満足していれば、いいのだが、教えを、垂れるから、おかしくなる。

黙って座れ、ただ、座れ、兎に角、座れ。
実に、馬鹿馬鹿しい。
勿論、人それぞれ、それの合う人もいる。
沈思黙考である。

道元が、感動した、椎茸乾しの、老僧も、言うのである。
椎茸乾すのも、学習であると。
つまり、座っているだけが、能ではない。
達磨は、座って、良かったが、だから、皆が、よいわけが無い。
更に、達磨から、仏陀に、辿るというのは、後世の人の言うことである。
達磨は、単に、自分の宗教を、拓いたのである。
仏陀とは、何も、関係無い。

覚者を、仏陀と称するのであり、インドで実在した、釈迦仏陀とは、何の関係も無い。

ちなみに、今でも、インドでは、聖者が、多く誕生する。
本当か、嘘かは、知らないが。

特殊能力は、魔界や、魔物が、関与するから、インドという、魔界関与の土地では、多くの聖者なる者が、登場する。
本当は、聖者ではなく、魔者、なのであっても、一般人は、その良し悪しが、判断出来ないから、聖者というのである。

達磨も、インドから、渡ってきて、中国で、座り続けて、九年。
崇山の少林寺で、壁に向かって座ったという。
こういう、偏屈な者に、師事するという、偏屈者も多い。

座り続けて、生きられた、良い時代である。

悟りという、お化けのようなものを、求めて、座るという、無明である。

座らなくても、人間は、寝る。
黙っていても、眠ることにより、瞑想するのである。
座るより、よく眠ることが、最も大切なことである。
眠りにより、深い意識に目覚めている。

坐禅をして、まさか、不眠症になっているのではないだろう、ね。

起きている意識の時に、無理して、深い意識の世界を、駆け巡らずとも、難なく、眠りにより、深い意識を、駆け巡ることが、できる。
仏陀は、そう言いました。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。