2008年07月17日

神仏は妄想である 136

いま現象している存在を否定するものではない。ものは幻だ夢だというが、ものの存在を否定してしまっては話にならない。ものは幻のごとしといっても、それも幻や夢の存在を現象の上で認めているからいえるのである。現に形あるものの存在を無いというのではない。
田上太秀  仏陀のいいたかったこと

ものに、執着する心を、作るなという、仏陀の教えは、宗教であろうか。
生きること、生活することの、実践的倫理である。

私が、カトリック教会に、通っていた頃、カトリックの司祭たちは、仏教は、宗教ではなく、道徳だと言っていた。確かに、そのようである。
しかし、宗教という、団体になると、無明である。
迷いである。
存在することのない、神や仏を、拝むという。

在ると、想定して、拝むという行為を、宗教というのである。
そのために、膨大な、教義や、教理を作り上げたのである。
ご苦労さんである。


さて、更に、仏陀は、ものだけではなく、人間というものも、観た。
体は、色や形という、肉体で成り立つ。そして、心である。
心は、感受作用と、表象作用と、形成作用、識別作用とによって、構成されると、考えた。
それを、五つとして、五蘊という。

この身を、構成する、五蘊も、本来は、空、と見た。
私の物という、実体も、永久、恒久なものでは無いと。

ゆえに、その体にも、囚われるなと、教える。

ものの、本来性は、空であると、正しく考察し観察すれば、それは、智慧となる。
この智慧を、持つこと、持つ人を、仏陀と呼ぶ。

従って、仏陀の教えは、仏陀になるための、教えである。

原始経典を見ると、釈尊は、人とは何か、人は何によって構成されているのか、人はどうして苦しむのか、なぜ迷うのか、人の根本悪は何か、などについてしきりに述べている。
人の老死の現実的苦しみについて問うのが、釈尊の立場である。かれは、すべてのものはみな苦(思うようにならないこと)である、と喝破している。老いるという苦しみ、死ぬという苦しみはわれわれに切実な問題である。その苦しみは何が原因であるのか、それは人がもっと知りたいところである。
田上太秀


その苦しみは、感覚的欲への囚われと、世界のあり方についての、無知であると言う。
そこには、霊魂の存在について、少しも介在することがないのである。

霊魂の存在を否定しては、宗教として、成り立たなくなる。
その通りである。
仏陀の、教えは、宗教ではない。


見事な、現実主義、合理主義である。

私が、宗教は、迷いであるというのは、そういう意味である。

無いものを、有るとしては、迷いなのである。

それでは、転生輪廻とは、何か。
仏教では、転生輪廻を教える。

ここからは、私の言葉で書く。

生まれ変りということは、有り得ないと言う。
前世というものは、前世で終わった。
以前に、行為によって、すべてのものが、決まるという、仏陀の、教えを書いた。
行為によって、輪廻するのである。

輪廻するような、行為を続けているのである。
その、行為から、逃れられないでいる。
故に、その行為が、繰り返されて、輪廻となる。

下手糞な、霊能者が、転生輪廻を言うが、前世は、何であったと言う、お話は、妄想である。

古代インドでは、輪廻を、サンサーラと呼ぶ。
つまり、流れる、という意味である。
それが、人生観、世界観となっていった、経緯がある。
輪廻の、最初の考え方は、人の行為を、業と結び付けて、考えた。
現在言われる、輪廻は、それである。
古代インドの、そのままを、言うのである。

過去の行為の結果として、今の存在があると、考える。


仏陀は、当時の人々に、教えを述べるために、在俗の人には、善を行えば、天に生まれると説いたが、方便である。
出家者には、一言も、そんなことを、言わない。

当時の善という、観念は、祭祀する行為を、善と言う。
仏陀は、そうではないと、言う。
仏陀の言う行為は、身、口、意の、三つである。その行為が、善であるということ。
その行為に、よって、因縁となり、次の生を、もたらすというのだ。
しかし、輪廻の、主体というものは無い。

ものの、生起は、すべて因縁による。
持続して、過去、現在、未来への存在する、不滅の主体があるのではない、と言うのだ。

行為(業)によって世界はあり、
行為によって人々はある。
生存するものは行為に束縛される。
ちょうど車がくさびに結びつけられているように。
スッタニパータ

人は愛執によって何かの行為を起こし、その善悪の積み重ねを繰り返し、習慣力としての業をつくる。その業が世界をつくり、人を形づくるというのである。輪廻は、すべて業に促されて、いろいろな因縁の助けを得て現象化するというのが、釈尊の輪廻説であった。
田上太秀

私の行為が、業となり、次の生をつくる。
しかし、私という、意識の私は、いないのである。
つまり、私は、無いのである。
あるのは、行為によって、繰り返される、因縁という、業のみである。

輪廻の主体は、因縁である。
それは、火である。
火が燃え尽きる。
火が、他方へ転移した時に、輪廻するというのは、有り得ない。
一つの体から、他の体に、主体が転移することは、無い。

因縁、業によって、ただ、生まれるのである。

私の、今世の意識が、輪廻するのではない。
私の因縁、業が、ただ、生まれるのである。

絶えず変容する個人主体は、前後の時間にわたって同一としてでもなく、また別の異なった者としてでもなく生存しつづける・・・
田上太秀

10歳の、私と、20歳の私は、違う者だが、同じ人間である。
10歳の私は、私として有り、20歳の私は、私として有る。
それと、同じことを、輪廻は言う。

そこから、脱却するのである。

転生輪廻とは、前世が、何か云々の話ではないのである。

生まれ変りの記憶というものは、主体が空なのであるから、それは、単に記憶なのである。
記憶を、私だと言うのが、前世云々である。

二度と、そんな記憶を、持たないこと。
つまり、行為によって、繰り返すような、愛執を、つくらないことなのである。

愛執という記憶によって、苦しみの、この世に、縁するのである。

霊魂というものも、作り出した、幻である。
本来は、空なのである。

霊魂とは、記憶である。

インドで、生まれた仏陀の思想は、インドに縁しているため、インドの価値観と、言葉による。
空とは、膨らんだもの、という意味だった。
つまり、空という記憶も、膨らんだものという、妄想である。

仏陀の、限界は、輪廻から、外れることというものだ。
それは、魔界の巣である、インドでの、究極の、選択である。

ただ、仏陀は、神などという、絶対的存在を、置かなかったことである。
世界は、すべて、縁りて起こることである。
よりておこる
つまり、世界に有るものは、相互に依存している。
そして、滅しているのである。

相互関係による、生起と、消滅、それは、縁起と、縁滅ということである、それによるのである。
神や仏という、絶対的存在は無い。

霊魂というものを、置けば、それが、絶対的なものになる。
霊魂も、空という、記憶、それは、妄想である。

ここで、飛躍すると、この世という、次元に生まれないこと。
次元移動してゆくこと。

仏陀は、インドの霊界に、天という場が無いと知るゆえに、天にも生まれるということを、考えなかった。
インドの天は、魔界の天である。
それらの、一切から、外れることを言うのである。

一人の人間が、100年後の、人間に、生まれることはない。
ただ、記憶が、引継ぎされるだけである。
それも、すべてではない。一部である。

ゆえに、誰が、前世という言い方は、誤りである。

前世の、記憶のあるという人がいる。
それで、前世は、誰々でしたという。
それは、強烈な、記憶の一部である。
その、前世と同じように、24時間を生きることは出来ない。

仏陀は、霊魂があるかどうかよりも、今の、行為を、正しくすることを、言う。
実に、真っ当な、対処法である。
生きるに、真っ当な対処法を、仏陀は、考え続けたのである。

これについては、また、別な形で、書くことにする。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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