2008年07月14日

神仏は妄想である 133

生というは、たとえば人のふねに乗れるときのごとし。このふねは、われ帆つかい、われかじをとれり、われさおをさすといえども、ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし。われふねにのりて、このふねをもふねならしむ
道元 全機より


禅が、生き残るべきは、宗教という、看板を下ろし、哲学道場として、活動することだと思うのは、このような、名文を見ると、強く思う。


人生というのは、たとえば人が舟に乗っているようなものだ。この舟は確かに自分が帆を使い、自分が動かしているにはちがいない。しかし、おれが生きているのだ、おれがおれがと言うけれど、逆に言えば、いくら自分がかじを取っていると言っても、しょせんは人生という舟に乗せられているにすぎない。舟がなければ川におぼれる。舟に乗せられてはじめて自分が成り立っている。とすると逆に、本当は人間を操っているのは船だということもできる。だから厳密に考えると、舟のほかにわれというものはない。
栗田勇


もし、人生を、このように、突き放して、観ることが、出来れば、実に有意義である。
これは、禅的に言えば、主観の客観性である。


栗田氏の、案内でゆく。
この場合、舟というのは人生のことです。つまり、人間は自分の生命、人生をああしようとか、こうしようとか、何とか自分の意志で動かせるものだと考えがちですが、実際は、自分で自分の人生を左右できるはずもなく、生という舟に乗せられているにすぎない。したがって、自分で自分の人生を自由にすることなど、できないのだというわけです。


宿命論のような、他力のような、気分になる。
ところが、道元の、捉え方は、違う。


栗田氏は、続けて
しかし同時に、「われふねにのりて、このふねをも舟ならしむ」。考えてみれば、私が乗っているからこそ、舟が舟なのだ。言い換えれば、自分なんてものはない。生きているという中に、ただ自分は乗せられているのだけれど、この自分が、私が生きているという事実を除いて、人生というものの実体はない。


これでは、また、元に戻っているようであるが、違うらしい。

要するに、生というものは、巨大な、それこそ宇宙爆発、また宇宙消滅のようなタイミングの一つの現れなのだ。宇宙と自分との間に生というものはある。あるいは、その両方が含まれたところにある。


青年の主張である。
そしてそれは、哲学である。
人生を、どのように、捉えるのか。


ところが、道元の「生死」というところに、書かれるのは、
この生死は、すなはち仏の御いのちなり、これをいとひてすてんとすれば、すなはち仏の御いのちを失わんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも仏の御いのちを失うなり。
と、ある。


その生死は、自己の生死ではない。「私」が「私」の生を生きるのではなく、「私」が「私」の死を死ぬのではない。だから厭ひ捨てても、執着しても、失われるのは仏の御いのちである。
亀井勝一郎


結果、仏というものに、転化する。
これでは、逆転の、発想であるが、大逆転である。
主体的でありながら、主体性を取り除き、仏に至るという。

この、仏に、神という言葉を、あててみると、キリスト教になる。
これが、宗教の迷いである。
それを、迷いではなく、真理だと、信じてしまうのが、信仰というものである。


いとふことなく、したふことなき、このときはじめて、仏のこころにいる。ただし心をもてはかることなかれ、ことばをもて言ふことなかれ。ただわが身をも心をも、放ちわすれて、仏の家になげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。
道元 生死より


美しい大和言葉である。
私も、若い頃、この言葉に、心酔した。
しかし、自我というものを、離れる、我というものを、突き放すという、行為によって、仏というものに、成る、成れると、思う心が、迷いである。

心を持ってはかるな、言葉を持って言うな
悟りや、救いについての妄想を完全に追い払うというのだ。
と、亀井勝一郎は、書く。

ところが、どうだろうか。
道元の、正法眼蔵は、全95巻もある。
よくよく、語ったものである。


一体、道元は、何を言いたかったのか。
仏と、仏で、向かい合っていれば、足りたものである。
しかし、何故、こうも、語るのか。
妄執である。
つまり、迷いである。

物を書くことによって、その、妄執から、逃れようとする。
書くという行為も、語るという行為も、妄執である。

仏陀は、語るが、実に易いのである。その多くは、例え話である。
道元は、中国思想の、中国禅の世界に入り、仏陀の本来の、目的、を、知らない。

もし、自分が、唯一の仏陀の法を継いで、それを、広告宣伝しなければならないと、考えたなら、京都から、離れずに、そこで、活動していたはずである。
都で、活動するのが、一番である。
しかし、失敗し、福井の田舎に、籠もる。

厳しい戒律、坐禅に生きるのである。
それで、良かった。
しかし、書くのである。
妄執である。それは、迷いである。

仏陀は、山に籠もらず、適度に、町から離れた場所で、行動した。
それには、意味がある。

少し、話は、逸れるが、仏陀の行動を、次に見る。
何度も言うのだが、日本の仏教は、中国を通してのものである。
特に、その思想は、漢語に訳された。

仏陀の、教えというものを、仏教、仏法というのなら、日本の仏教は、仏陀の、仏教ではなく、日本仏教であり、それは、創作である。

大乗になると、仏陀は、神格化されて、結果、各宗派の、開祖を、頼り、甚だしくは、その、開祖を、拝むという、真似までする。


考えるという、哲学の一つとして、あるのならば、理解するが、信仰するという、宗教という形にしてあるのは、実に、誤りである。
仏陀は、一言も、そんなことを言わないのである。

仏法とは、行為することである。
信仰することではない。仏陀は、一言も、信じよとは、言わない。

勿論、創意創作の、行為を、誤りだと言うのではない。
それを、信仰させるということが、誤りである。
だから、仏陀の、行為を、見ることにする。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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