2008年07月10日

神仏は妄想である 129

さて、
道元の禅は、最初、栄西による、臨済宗の禅からはじまり、中国に渡り、曹洞宗の禅によって、覚醒した。
しかし、本人は、宗派にあらず、名前もないという。
これが、仏陀への唯一の道であると、考える、信じるのである。

それでは、少し、禅というものを、歴史的に、俯瞰してみる。

禅と、一口に言っても、広い、インド禅、中国禅、そして、日本禅がある。
健康法として、知られるヨガも、インド禅の一つである。

東南アジアの、仏教では、別の瞑想法を、行ずる。
北方仏教も、小乗禅と、大乗禅がある。

実は、天台宗の止観、真言密教のユガというものも、浄土宗の念仏も、禅の一部と、みなすのである。

この、禅という言葉は、中国語である。つまり、漢訳の言葉である。
インドでは、瞑想を意味する、ドヒャーナ、または、ジュハーナという言葉であり、禅とは、漢字で、音写した時に、生まれた。

ドヒャーナは、ヨーガと呼ばれるもの、精神統一法の、心の制御の一つの段階である。
ちなみに、ヨーガとは、結合という意味で、心を、しっかり、一つの対象に集中させるべくの、方法だった。

中国では、禅定という言葉が、使われることになるが、それは、サマードヒーといわれるもので、禅よりも、深く心が安定した状態を言う。
三昧という、境地を言う言葉は、それを、音写したものである。

それでは、禅という文字は、最初、どのような意味を持っていたかと言えば、譲る、奉るである。
中国初期の、翻訳が、禅という言葉に、訳したのには、政治的、宗教的心情があったと、言われる。

それは、最初、西暦紀元前後に、シルクロードから、やってきた仏教の、禅とは、神秘的な力、超能力に対する信仰と、共に始まったという。
それは、当時の、道教や、神仙の信仰が、盛んであったことと、関連する。

古代のインドは、禅の実践によって、つまり、ヨガによって、天に生まれることが、出来ると、信じた。
現世では、五種、六類の、神通力が、得られると、信じられた。

仏教が、中国人の心を捉えたのは、おおよそ、それである。
後漢末に、安息国から来た、安清高という僧は、天文、医術、鳥獣の声を聞き分け、彼が、伝えた、経典は、禅に関するものが、大半だったという。

西域と呼ばれる、中央アジアは、中国人にとって、神秘の宝庫だったという。
中国最初の、仏教史書は、高僧伝として、仏典を伝えた翻訳者、学僧などは、皆、神通力の持ち主であったと、書かれたのである。

しかし、漢文に翻訳された、小乗、大乗の仏典の研究により、それらの、神秘的なものが、失われ、文学的空想、哲学的思惟の世界へと、向かう。

六世紀末になると、多くの経典を、組織化し、禅の実践によって、体系づけた、天台宗が、生まれる。
それが、天台チギと、言われる者である。
さらに、ここから、禅と、念仏の二派に、分かれて、思想、宗派を、形成する。
インドでは、禅も、念仏も、仏教にあっては、根底にあるもので、それぞれが、独立するような形は、無い。
中国に至って、そのようになった。

さて、一方、この天台宗の成立より前に、北魏に来た、西域の僧、ボダイ・ダルマを、始祖とする、禅がある。
その、伝記は、明らかではない。
この、禅宗が、今日言われる、禅宗である。

この、禅宗と、天台宗の、大きな違いは、インド仏教の、残滓を全て捨て、完全に払拭したことである。
つまり、新しい、宗教活動の誕生である。
この辺り、ダルマのことが、不明というのが、何とも、不安である。
つまり、何かの作為があると、思う。

ダルマの方が、中国的であるという、点である。
インド仏教以前に存在したと、その弟子たちが、創作していったと思われる、経緯がある。

この、ダルマの禅は、神秘的能力などの、超能力は、一切認めない。さらに、坐禅によって、心の安定さえ求めないという、徹底した、ある、考え方を、持つに至る。

ちなにみに、禅を、ゼンと読むのは、日本人であり、中国では、チャンと、読む。

世界に広がる、禅は、日本禅のことである。

中国で、翻訳された、仏典に、多くの、道家の言葉が使用されたと同じように、日本が、西洋思想を、取り入れて、翻訳する際に、多くの禅の言葉を当てた。それが、後々、禅というもの、哲学として、語りえるものになる。

つまり、言葉の誤魔化しである。
そこに、問題意識のある者の、存在を見ることもない。

西田幾多郎という、哲学者は、禅の悟りを、哲学したといわれる。そして、それを、言葉に書いたとするならば、である。
もし、本当ならば、禅というものは、在り得ないのである。
言葉で、悟りが、語れるということは、禅の堕落である。

無とか、空など、それは、道教による言葉だった。しかし、今では、仏教のもののように、思われている。
それは、日本も同じくである。
西洋哲学と、禅の伝統は、全く違う。
しかし、その違いを忘れて、西洋哲学の中で、平気で語られるという、ザマである。

それは、実は、話にならないのである。
和歌を、英語に翻訳する、俳句を、英語やフランス語、イタリア語に、翻訳することと、同じになり、決して、和歌や、俳句の、微妙繊細な、情感は、得られない。
日本語により、和歌や、俳句の意味がある。

それと、同じことである。

日本禅を、西洋哲学が、語り始めて、堕落した。
更に、禅家の皆々である。
西洋哲学に、おもねるように、行為したから、終わっている。

さらに、西洋哲学をする者の方が、禅を、理解するのに、易しい語り方を、するというのである。

実は、結論から言うと、禅とは、実践の何物でもない。
語れば語るほど、嘘になる。
大嘘になる。

それでは、どのような、行為になるのか。
追々書くことにする。

一つ、道元は、その実践に賭けたと、評価することが出来る。
戒律である。
後で書く。

仏陀にはじまる、修行生活が、今なお、継続されているのは、セイロン、タイ、ビルマなどの、上座部、つまり、小乗仏教といわれるグループと、日本の禅専門道場であると、いわれる。
確かに、日本の禅、専門道場にては、そうであろが、そこを出ると、元の木阿弥である。
僧侶という、仕事に、堕落する。

仏陀最大の、教えは、出家者は、ペニスを膣に入れてはならない、である。

これほど、厳しい掟は無い。
悟りの前に、それに、やられる。
仏陀が、それの、経験者である。
そこから、逃れるのは、至難の業である。

ところが、禅のアホに言わせると、男女の仲を知らずに、何が解ると、豪語し、それも、禅の心のように、言う。
つまり、禅とは、何とでも、言えるものだと、私は、悟った。

それならば、源氏物語の、創作の、好色の物語の方が、ずっーと、仏陀に近いのかもしれない。
あれ程、好色の様を、描きながら、もののあわれ、という、心象風景に至るのである。

仏陀の観たもの、それは、心象風景である。
それ、もののあわれ、という、風景に尽きる。

神仏は妄想である、という、エッセイを書いている。
禅は、実に、神も仏も無いという、究極に至ることが、出来る。
だから、このエッセイの本意にはないのであるが、仏を、持ち出すので、書くのである。

禅には、仏という存在すら、無くていいのである。
これを、天山禅と、呼んでも、いい。
禅とは、そういう、可能性を持つ。

行為以外に、修行は無いとは、仏陀の究極の教えである。
人は、行為によって、成る者に、成るのである。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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