2008年07月09日

神仏は妄想である 128

太陽山偕和尚、示衆云、青山常運歩、石女夜生児
たいようさんかいおしょう じしゆうにいわく せいざんつねにうんほし せきじょよるこをうむ

これはすごい言葉です。動かない山(青山)というものは、実はつねに歩いている。子を生まない石女が、実は、夜、子を生むのだというのです。ずいぶん無茶苦茶で矛盾した言い方です。私たちの常識を著しく衝撃します。
いつも道元は、まず結論を出して人を驚かして、それからそのいわれを説いていくのですが、道元の解説によると、つまり、山にはすべてのそなわるべき真実が、まったく欠けることなく、そこに存在している。そういう意味で言えば、山はつねに安らかにそこに住んでいるのである。
しかし、山が歩くということも、人間が動くということも本来は同じであるから、人間が歩くように目に見えないからといって、山が歩いているということを疑ってはいけない。
栗田勇

それから、解説に入るのだが、それが、事後預言のような、話になるのである。

禅というもの、実に、不思議である。
言葉を、手品のように、扱う。そして、それを、そうそう、解説せずに、悟り云々というのである。
さらに、それを理解しない者、出来ない者は、欄外となる。

不立文字、つまり、語らないと、言いつつ、語る、語る。

確かに、山が動くと、云われれば、皆、驚くに決まっている。その、衝撃に、期待して、何事かを、教えるというのである。
それは、考える手引きとなるものだが、単なる手品のようなものである。

一時期、私も、禅の言葉に、心酔したことがあった。
勿論、若い頃である。
そして、あろうことか、何事かを、理解したと思っていた。
何のことは無い。言葉遊びであった。

問題は、動くということと動かないという矛盾したことが、どうして一致するのかということです。「運歩」とは、つねに歩く、言い換えれば、つねに、刹那刹那に動いている、変化しているということ。つまり、山というのは細かく見れば変わっている。・・・・・
何億年という単位でみれば地殻も変化するし、地震も起こす。太平洋トラフトがトラフトの下にもぐっていく。すなわち山は動いているわけです。
しかし、そのように変化しているからこそ、山というものはつねにさまざまな形は変えるけれども、永遠の山は不変であるとくる。
栗田勇

山中とは世界裏の花開なり
さんちゅうとはせいかりのけかいなり

山の中にいるということは、実は、世界裏―――世界の中で花が咲いているということだ。
花開くとは、刹那、瞬間の現象を意味します。たとえば一輪の花が開くという現象の中に、実は山全体というものが姿を現しているのだというのです。
栗太勇

この調子で、進んでゆく。
さらに、道元は、山の中に、そのような宇宙の真実を見ることができない人間は、悟らず、知らず、見ず、聞かず、まったく真理を知ることができない、という。

ある人が、私のエッセイを、読んで言う。
言うことは、よく解るが、私の考えと違うと。
それは、大いにあり得ることである。しかし、道元の文になると、それが言えなくなる。道元という、権威があるからである。

これらは、実は、小学生の、物を考えること、という時間などで、教える程度のものである。
急死された、ある女性哲学者の方も、禅は、残りえる宗教だという。
それは、考えるヒントになるからである。

問題は、それからである。
道元は、山の寺に籠もり、規律正しい生活の中で、僧として生きられた。
後々、道元の、規律についても、書くが、結局、娑婆、現実世界とは、離れた場所にて、生きることができた。
ただ、それだけの違いである。

禅の、言葉を、生きるとしたら、現実社会の中では、生きられない。
それは、道元も言う。
出家することなのである。

話を、元に戻す。

だから、何だと言うのかという、言葉の数々である。

石女、うまづめ、が、子供を生むという。
うまづめは、子供が産めないから、石女と、呼ばれる。
それを、石女が、子供を生むと、脅す。

仏法から、見れば、石そのものは、不変であるかのようだが、実は、生き生きと活動していると、こういう、話になる。

であるから、何でも、いい訳である。
思考の転換を、促す言葉であれば、何でもいいのである。

女が、子供を生むのではない。因縁が、子供を生むのである、と、言ってもいい。
一人の人間が生まれるには、膨大な人の縁あればこそである。
そのように、いくらでも、言葉遊びができる。

青山すでに有情にあらず、非情にあらず。自己すでに有情にあらず、非情にあらず。

その境地は、もはや人でもなければ山でもない、山でもなければ人でもない。そういう山や人間という差別を超えたその奥にある深い、永遠から今につながる真実の姿というものが見えてくる。あるいは、そういう境地に立ち至っている。
栗太勇

これは、フランス文学者の書いた、道元の言葉の解説であるから、よく解るが、禅の僧たちの、解説になると、さらに、そのための、解説が必要になってくる。
いかに、深いのかということを、書く、書く、書く。

自分と山が、一致しているという実感を、味わうというのである。
それでは、何故、源氏物語から、それを、知ることが出来ないのだと言う。
大和言葉の世界は、それ、に、満ち溢れている。しかし、それを、殊更のように、言うことはない。水のように、さらさらと、流している。

どちらが、上級なのかは、一目瞭然である。

道元は、日本人として、禅を理解したのである。
それは、インド哲学、中国哲学を、超えていたものである。
彼、自らの内に、あったものである。

主観も、客観も、無い世界が、開けるのである。とは、言うが、それを、実生活で、生きるとする時に、どのようなことになるのか。
何の変化もない。

それを、和歌にして詠むのが、日本人である。

実生活の中で、それを、生きるべきく、先祖たちは、和歌を詠んだ。

もっと極端に言えば、逆に、山が歩くというよなことを手がかりにして、山のことなんか忘れてしまえ。あるいは、山を見ている人間がいるという考えも捨ててしまえ。あるのは山だけだ、あるいはその山もないのだというような境地、心持を体験しなさいと言っています。
栗太勇

こうして、尽きることの無い、深み、深さに至るのである。
本当だろうか。

それを、日々の生活に生かすとしたら、どういうことになるのか。
そんなことを、感じていたら、空気の読めない人になるだろう。
だから、禅を語らせたら、暇な人に限る。
延々と、繰言のように、話し続ける。

それで、よく解らないと言うと、兎に角、座れという。坐禅のことである。

もう一人、フランス文学者である、森本和夫という人も、道元をよく読んだ人である。

なるほど、「世界」に「水」があるということは事実だといえるにしても、それは一面的なとらえかたにすぎない。世界の水だけを考えていたのでは、「水」そのものを考えたことにならないのである。そのような偏見を捨て去って、絶対普遍的な立場から「水」というものをとらえてみるならば、「水」の場所に「世界」があるということもいえるのだ。
森本和夫

こうして、道元の言葉から、迷いの道に踏み込んでしまうのである。

絶対普遍的な世界、それは、すなわち、仏の世界である。
要するに、すべては、仏の世界を、現すというのである。

それでは、私も、一変に飛躍して、芭蕉の句を言う。

有名な、駄作がある。
しずけさや いわにしみいる せみのこえ
である。
禅をする者、どのように、解釈するのか、訊いてみたい。

静けさと、蝉の声である。
さて、どうする。
蝉の声が、静けさを、現す。
それ、仏の世界ではないか。

人を、惑わす仏の世界が、その句にあるではないか。

蝉の声が、静けさというものを、より一層、讃えているのであろうか。
蝉の声も、静けさも、一緒、つまり、同化している世界、つまり、仏の世界であろう。

要するに、何でもいいわけである。

古仏云、「山是山、水是水」
こぶついわく、やまこれやま、みずこれみず

道元は、それを、解説して、
やまはこれやまというにあらず、山これやまというなり。しかあれば、やまを参究すへし。山を参窮すれば山に功夫なり

やまこれやま、という、日常レベルではなく、目の前にある山は、無限絶対という、仏の世界と、一体化した、やまなのである、ということである。

目の前の山が、カラーフイルムが反転するように、バッと飛躍してひっくり返ると、絶対的な真実が見えてくる。これはひじょうに美しい文章で、道元の面目躍如といえましょう。
栗太勇

後で、禅語録を、読むが、そのような、飛躍した、言葉に溢れている。

飛躍しているのか、イッてしまったのか、解らないが・・・

思想としての、禅は、非常に評価できるものである。
何気ない言葉に、新しい息吹を吹き込むのである。
そして、楽しい。

粘土から、美しい、陶芸が、出来るのである。陶芸品でよし。
それが、仏に至ると、誤る。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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