2008年07月09日

もののあわれ239

源氏に、女談義を、聞かせる、男たちの話は、面白いが、私のテーマは、もののあわれについて、であるから、省略して、中に、もののあわれ、について、触れる話があるので、抜き出す。

それは、左の馬の頭の論にある。

事が中になのめなるまじき人の後見の方は、もののあはれ知りすぐし、はかなきついでの情あり、をかしきにすすめる方、なくてもよかるべしと見えたるに、またまめまめしきすぢをたてて、耳はさみながら、美相なきいへとうじのの、ひとへにうちとけたる後見ばかりをして、朝夕の出で入りにつけても、おほやけわたくしの人のたたずまひ、良き悪しき事の、目にも耳にもとまるありさまを、うとき人に、わざとうちまねばむやは。

事が中に なのめなるまじき人の
妻に必要なのは、家庭を預かることです。
もののあはれ知りすぐし
ここでは、文学的才能とか、文学趣味とか、才気のことを言う。
書き物、物書きを、よくする事を、もののあはれ知りと、解す。
それは、また、歌をよくするという意味でもある。

はかなきついでの情あり をかしきにすすめる方、なくてもよかるべしと 見えたるに
儚きついでの情あり、とは、矢張り、そのような素質のあるという。
それを良くすることであるが、そんなものは、別に、無くてもいいのだ。

真面目で、形振り構わず、髪を煩がり、耳の後に、はさんでばかりいる。
ただ、物の世話だけを、やってくれる。でも、そんなんでは、少し、矢張り、物足りない。
勤めに出れば、出るで、帰れば帰るで、公のことなど、友人や先輩のことなど、話しすることは、多くある。
それは、他人に言えません。
理解ある、妻にしか話せないのでは、つまらない。要するに、話を聞いてくれる妻がいい。


近くて見む人の聞きわき思ひ知るべからむに、語りも合わせばやと、うちもえまれ、涙もさしぐみ、もしはあやなきおほやけはらだたしく、心ひとつに思ひ余る事など多かるを、なににかは聞かせむと思へば、うちそむかれて、人知れぬ思ひで笑ひもせられ、あはれ、ともうちひとりごたたるに、「なに事ぞ」など、あはつかにさし仰ぎ居たらむは、いかがは口をしからぬ。

この話を、早く聞かせたい、妻の意見も聞きたいと思う。
そうすると、一人でも、笑みが湧いてくる。また、涙ぐまれもする。
また、公のことで、怒りをもっても、我が心に、しまえぬ時、それを話す妻ではないと、思えば、一人で、思い出し、笑う。哀れだと、独り言を言う。
そんな時に、何ですか、と、平然として、こちらの顔を、見るような、妻では、たまらない。

そうして、暫くの談義が、続くのである。
それは、明かし給ひつ、というように、朝まで、続いたのである。

中でも、源氏が惹かれた話は、左の馬の頭の、中流階級の女の話である。
それに、興味を持ち、源氏の、恋愛遍歴が始まるのである。

この巻の、後半に、年上の人妻である、空蝉という女性との、やり取りがある。


からうじて、今日は日のけしきもなほれり。かくのみこもりさぶらひ給ふも、おほい殿の御心いとほしければ、まかで給へり。大かたの気色。人のけはひも、けだかく、乱れたる所まじらず。「なほこれこそは、かの人々の捨てがたく取りいでし、まめ人には頼まれぬべけれ」とおぼすものから、あまりうるはしき御ありさまの、とけがたく恥づかしげに思ひ静まり給へるを、さうざうしくて、中納言の君、中務などやうの、おしなべたらぬ若人どもに、たはぶれごとなど宣ひつつ、暑さに乱れ給へる御ありさまを、「見るかひあり」と、思ひ聞えたり。

ようやく、今日は、晴天である。
このように、宮中にいることばかりでは、左大臣の家の人々に、申し訳ないと、思いつつ、家に行った。
人の気配も、乱れなく、こんなことが、真面目だという、昨夜の談義の者たちは、気に入るだろうと、思った。
源氏は、今も、作法通り、打ち解けない夫人であることを、物足りなく思う。
中納言の君は、中務などという、若い女房たちと、冗談を言い、暑さに、部屋着だけになる、源氏は、それを見て、美しいと思い、それを、幸せだと、思った。


おとどりも渡り給ひて、うちとけ給へれば、御凡帳へだてておはしまして、御物語聞え給ふを、源氏「あつきに」と苦み給へば、人々わらふ。源氏「あなかま」とて、脇息に寄りおはす。いと安らかなる御ふるまいなりや。


大臣も、娘の方へ出て来た。
部屋着になっているので、凡帳を隔てた席に着こうとするので、「暑いのに」と源氏が顔を、しかめると、女房たちが、笑った。
「静かに」と、脇息に、寄りかかった様子に、品の良さが伺える。

人間描写が、もののあわれ、である。
文芸的センスに溢れる。

源氏の立ち居振る舞いが、状況にて、自ずと知られるように、描かれるのである。

大和言葉による、風情というものもある。
言葉にも、雅というものがある。
この、雅の中に隠す、あはれ、という、心象風景は、源氏という人物を通して、自然と、沁みてくるのである。

文中では、もののあはれ、とは、文の嗜みなどを、言う。
生活の中に、息づく、歌心である。
それが、いつしか、人の心の、有り様となって、静かに、もののあはれ、というものを、成長させるのである。

歌道とは、和芸の大元である。
文学というものに、まだ、目覚める前の、原始の状態である。
文の学びはあるが、体系としての、文学という意識は、まだ、希薄である。しかし、私がいうのは、明治期に、西洋の文学を取り入れて、文学として、意識したものとは、違う。

和芸としての、文学、つまり、文習いである。

漢籍を、学ぶことで、文というものを、それに、合わせて、学んだが、歌を詠むのは、漢籍を能くする者も、大和言葉による。

源氏物語は、分岐点でもあった。
歌道への、道と、文芸への、道と、まさに、今、生まれでようとしていた。
だが、文芸の中にも歌道は、しっかりと、取り込まれているのである。

歌道無くして、文芸は無いのである。
歌は道であるが、文は、芸の道として、新たに、生まれ出るである。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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