2008年07月08日

神仏は妄想である 127

而今の山水は、古仏の道現成なり。
じこんのさんすいは、こぶつのみちげんじようなり。
道元

自然における人間のあり方を、とことん突き詰めた道元の、結論がここにあります。
栗太勇

栗田氏は、その前に、
われわれ日本人は、自然というのはもともと存在するありのままのものだと思う。しかし、ヨーロッパで自然―――ネイチャーといえば、神の被造物だから神の秩序の下にあると考える。神の秩序の中にないものは、これはカオスです。カオスとは、混沌であり悪魔です。自然ではありません。
だから西洋においては、自然は神が造った秩序であり、人間も同様である。つまり、人間と自然とは、神様を仲立ちにして、同じ被造物として対立の関係にあるということになる。
と、言う。

この手の話は、多い。
欧米人は、自分たちが、理解出来ないものは、悪と、考える。
それは、キリスト教による。
理解出来ないものは、皆、悪魔から、出ると、信じる。

チューク諸島、エモン島に、慰霊に出掛けた時に、若者の葬儀を見た。
島の人は、ブラックマジックに、掛かったと、理解し、島の、方法で、彼を助けようとした。しかし、教会は、それを、悪魔的方法であると、両親に言う。信仰深い、両親は、島の方法を、断った。
島の一人が言う。
誰でも、それを、行うことが出来る。
山に入り、草の新芽を採り、それを、煎じて飲ませれば、治るのだと。
グアムの病院、ハワイの病院を回り、それでも、治らない。それで、島に戻して、亡くなったのだ。

このように、キリスト教により、彼らの理解出来ないものは、悪魔のものと、判断すると言う、非常に短絡的思考なのである。

日本人は、自然を、もともと存在する、ありのままのものだと、思うと、栗太氏は、言うが、それは、どこからのものかを、言わない。
古代からの、日本人の感性であり、それが、現されているのは、万葉の歌である。

さて、道元の言葉である。
有名な、山水経の中にある。
而今の山水とは、その中に、過去、現在、未来を、通じて、絶対的な、今の存在としてあるというのである。

ということは、とりもなおさず、かつて釈迦なら釈迦のような真理に到達した人が見た山水である。対立する人間と自然というような差別もない。自分を捨てきったときに、そこに現れてくる全宇宙というものがある。
「古仏」の仏とは真理ということです。古とは昔ということではない。かつて釈迦や悟りを開いた人がはっきり体験した瞬間のことであって、それは永遠の瞬間です。自分が悟りを開いた瞬間もまた同様で永遠です。したがって仏道の先輩たちが見た山水の姿は、いま自分が目の前にしている山や水に、そっくりそのまま現れている。
栗太勇

見ている自然、見られている自然、という、概念を超えた、それらを、すべてひっくるめた永遠の世界というもの、それが、今、そこに、姿を現すというのが、山水経であると、栗太氏は、言う。

道元の文は、名文である。
心に迫る質が、他の文とは、違う。
文学として、日本が、誇れるものである。

しかし、だか、と言う。
道元の、発見は、すへでに、日本人の、持つものである。
道元は、漢語を使い、見事に表現したが、それは、日本人が、もともと持っていた、感性である。

いわばしる 垂水のうえの さわらびの 萌えいずる 春になりにけるかも
志貴皇子

ただ、自然の様を歌う。
春が来たと、歌う。
その春は、永遠の春である。
今、春しかないのである。
歌は、多くを説明しない。
しかるに、仏教は、延々と説明する。そして、更に、何とでも言う。
理屈に理屈を、重ねる。
人は、それに翻弄される。

道元の見事な、文に、感動するのは、理解するが、それは、元々、そのように、あった、日本人の感性による、捉え方であった。

連続している時間の中の昔ではなく、昔の釈迦が生きていた瞬間の真実ですと、栗太氏は言うが、昔の釈迦が、生きていた瞬間の真実ですという、感覚は、どこからのものか。

今、目の前の山水は、悟りを開いた釈迦が、見た瞬間の山水だという。

これは、発見ではなく、確認である。
日本人は、そのように、自然を観ていたのである。

古今の絶唱といわれる、万葉、舒明天皇の御歌。

夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寝宿にけらしも
ゆうされば おくらのやまに なくしかは こよいはなかず いねにけらしも

何事もない、沈黙と、静寂を歌う。
すでに、時間を超越し、さらに、自然との、対立なく、和している。
それは、今が永遠なのである。

しかし、ここで、道元と違うことは、そこには、神も仏の無いということである。あるのは、自然のみである。
しかし、道元は、釈迦とか、仏を持ち出すのである。

神も仏も、置かない、歌というもの、それが、日本の伝統である。

道元も、そこから、逃れ得なかった。日本人である。
ただ、仏という、方便を置いたのである。

天智天皇御歌

わたつみの 豊旗雲に 入日さし 今夜の月夜 あきらけくこそ
わたつみの とよはたくもに いりひさし こよいのつくよ あきらけくこそ

そのまま、生命力の歌である。
しかし、それを、説明しない。

海上遥かに、大きく豊な雲が、旗のように、たなびいている。その雲に、夕日が射している。今夜の月は、清明であろう。と、歌う。

神や仏を、置かない。
自然のそのままを、歌う。
数万語を超えて、三十一文字に託すのである。

私は、道元を、世界に通じる、実存哲学であると、言う。
しかし、万葉は、実存という言葉も、超えて、つまり、説明せず、そのままを歌い、それで、完結する。
その、完結は、ただ、広がり行くばかりである。
無限である。そして、永遠である。

而今の山水は、古仏の道現成なり、と語らなくても、万葉の歌は、それを、軽々と超える。

道元の求めたところは、仏ではなく、大和心である。しかし、それに行く着く前に、坐禅で、止まった。

それでは、名も無き人の、万葉の歌である。

大海の 島もあらなくに 海原の たゆたふ波に 立てる白雲

大海の 水底とよみ 立つ浪の 寄らんと思へる 磯の清けさ

海原の 道遠みかも 月読の 明すくなき 夜はくだちつ

主観、客観を超えて、貫流するもの。
多くの言葉を、使用せずに、歌い上げる、あるがままの、姿。

どこにも、神や仏を、持ち出さないのである。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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