2008年07月06日

神仏は妄想である 125

尽界はすべて客塵なし、直下さらに第二人あらず。悉有それ透体脱落なり。
じんかいはすべてきゃくじんなし、じきかさらにだいににんあらず。
しつうそれとうたいだつらくなり。
道元

仏教、とくに大乗仏教には仏性論という考え方があります。すなわち、人間には誰でも「仏性」という一つの素質、種子が備わっている。したがって、これに目覚め、これを育むことによって、人間は誰でも仏になれるのだという考え方です。
栗太勇

この、大乗の、仏性論というのは、実に、如何わしいのである。
これが、後の人々を撹乱させた。
玄奘の法相宗は、それを、認めていない。玄奘は、大乗の研究としては、第一級の人である。
後に、それを、書くことにするが、後々である。

この思想の、根拠になっているのが、般若経にある、一切衆生 悉有仏性 如来常住 無有変易、である。
この中に、すべての仏教の真実が含まれていると、言われると、言う。
誰が言うのか知らないが、そういうのである。

この仏性論について、道元の考えを展開しているのが「仏性」の巻ですが、ここで道元は、従来の通説を打ち破り、それを超越した大胆な考えを示します。この否定の上での飛躍がいかにも道元らしいところです。・・・・
道元は「一切の衆生・悉有が仏性なり」と読めと言う。「悉有」とは「ことごとくにあり」ではなく、彼の言葉でいうと、「悉有」それ自体が仏の言葉であり、仏の舌である。仏祖の目の玉であり、出家者の真実である。つまり、全存在ということになります。
いっさいの生きとし生けるものは、だから悉有の一部であり、山川草木国土が、そっくりそのままズバリ仏性である。全存在が仏性そのものであり、仏性以外の何物でもない、というところまで突き詰めていきます。
栗太勇

尽界はすべて客塵
この世は、すべて主体性そのものであり、対象となるものはないというのである。

直下さらに第二人にあらず
ただいま現在の、いまここに、第二人者、二人目の相手となるようなものはない。ただ、すべて、一人称の一人だけしかいない。

天地宇宙がただ一人、すべてを含んだただ一人のものとして、仏性をさらけ出している。もちろん草木も衆生も、人間も私もあなたも、この悉有そのものであり、仏性そのものです。
栗太勇

以前、日本だからこそ、仏教が、花開いたと言った。
日本人の感性を、持って、仏教というものに、新しい、思想的思索が、加えられた。

その後の、中国仏教が衰退しても、日本には、脈々と、仏教の流れが出来た、そして、今も、それが、ある。
それも、仏教家、僧たちとは、別の形で、である。
日本の仏教思想は、仏教家や、僧たちから、離れて、今、様々な、分野の人々によって、検証され、新たに、生まれようとしている。

それは、宗教という組織を、離れたところで、行われ、それは、実に、理想的に、行われるという、状況である。

宗教という、仏教には、用はないが、仏教という、ものの考え方には、用があるのだ。
それは、人間というものを、考える時に、有効な手段となり得る。それには、私も、賛成である。

後で、道元の求める、求道の姿を言うが、彼の門にいる者、今、誰がそれを、継いでいるのか。ほとんど、誰もいない。
永平寺などは、おおみそかに、NHKが、思い出したかのように、ボーンと、鐘を打つ音を、鳴らして、こ汚い僧たちの、読経の様を、全国に放送するのみの、価値である。

寺にいる間は、清純清潔のように、見せるが、末寺に戻ると、在家よりも、甚だしい、罪の生活をするのである。
在家より、罪深い生活をするのは、何も、禅宗の僧たちだけではない。
全国、日本仏教の僧たちは、皆々、在家より、罪深い生活をして、のうのうとしている様である。

これを、唾棄すべき者という。
更に、信長なれば、全員、焼き討ちである。
私も、そうする。

仏典を、深読みするというのは、日本の仏教家の、特徴である。
皆々、勝手に、仏典を深読みして、それぞれの、教義やら、教えやらを、立てた。
勿論、それは、妄想である。

深読みを、感嘆賛嘆する者もいるが、私は、妄想以外の何物でもないと、見ている。

例えば、日夜、蒲鉾を作る人より、彼らが、優れているとは、思わない。
絶えず、皆が、旨いと思える蒲鉾を、作るということで、奉仕する人に、私は、仏陀の教える、生きるということの、本質を観る。
漁師も、百姓も、日々の生活を送る人である。
更に言えば、捕る、育てて採る、作る人々である。

よい米を作るために、日夜努力奮闘する人より、坐禅をする人が、落ちるのである。
人生の秘密を、知るためならば、坐禅をする前に、人に奉仕する仕事をせよと言う。

仏の教えが、人の心を、救うとか、慰めるという、勘違いは、止めることである。単なる、迷いを、教えているのである。

仏性などいう、カラクリは、単なる、言葉の遊びである。
そんなものを、あえて、持ち出すことなく、仏性や、神を超えたものを、人は、持つのである。

結局、彼ら、有名無名の僧たちも、我の内に在るものに気付いたという。
そのために、無用なことに、汲々とし、仕事もせずに、言葉遊びを、繰り返しているのである。

僧たちの、作務など、子供騙しである。

この世に生まれてきたことは、地獄に生まれたということである。
その、地獄で、仏を云々などしている、暇があろうか。

道元の存在価値も、鎌倉時代という、時代性にある。
現在、道元がいたならば、引きこもり、オタク、危険神仏ではない、危険人物とされる。

道元の書き物を、持って、更に、思想や思索を、深めるというなら、理解する。しかし、道元に、浸りきると、誤る。

道元は、あの時代の道元で、終わっているのである。

すべてが、主体である。
つまり、実存である。
一人称のみ、それ以外は無い。
見事な言葉遊びである。

それで、彼の築いたものは、役立たずの曹洞宗という、僧の集団である。

まだまだ、道元の世界を、続ける。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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