2008年07月06日

もののあわれ236

源氏物語に、分け入ることにする。

私は、源氏物語を、研究するのではない。
世界最古の小説から、もののあわれ、というものを、読み取るのである。

源氏物語に関しては、数多くの解説、研究、その他諸々あるが、私には、あまり興味が無いものである。

最初の小説であるから、小説というものの、書き方など、非常に興味があるが、もう、それも、失せた。
私の、興味があるのは、ただ、物語の中に描かれる、もののあわれ、というものの、有り様である。

それは、大和心と言われる、万葉から、始まり、いや、それ以前から日本人の、心象風景として、存在した。
万葉集によって、それが、記録として、残された。

大和心を、尋ねると、そこには、必ず、もののあわれ、という、心象風景が、広がる。
私は、源氏物語を、その一点で、読む。

明治期になって、西洋の文学手法から、学問として、源氏物語が、研究されたが、物語、小説とは、端的に、娯楽である。
芸術として、云々するのは、否定しないが、面白くなければ、意味が無い。
生きるためではなく、人は、死ぬまでの、暇つぶしに、様々なことに、挑戦する。
小説というものも、その一つであり、それ以外の、何物でもない。

古典は、昔の言葉であるから、読みにくい。そして、古語は、意味が、解らない。解らないものは、面白くない。故に、古典は、一部の人によって、愉しまれる。
それはそれでいい。
新しい物語は、いつの時代も、生まれる。

楽しいならば、源氏物語を、原文で、通して読むことであるが、無理をする必要はない。また、現代文にて、訳されたものを、読んでもいい。
要するに、これこそ、唯一という、読み方は無い。
一生、読まない人もいるだろう.

小説とは、その程度のものである。

私は、源氏物語から、もののあわれ、というものを、観るべく、自然描写、風景描写からみる。
本居宣長は、もののあわれ、を、人と人の触れ合いから、観た。
恋する者の、心の綾から、観た。

平安期の、色好みとは、恋愛の様を言う。
今に至るまで、人間のテーマは、変わらない。
恋愛である。

中には、冷血人間がいて、恋愛などとは、程遠い者もいるだろうが、それはそれで、いい。無理をすることはない。

日本人は、もののあわれ、という、心象風景を、多く、恋の中に観た民族である。
源氏物語も、その一つの切り口に過ぎない。

日本人の、心象風景に、いつもいつも、一本の道がある。
それが、もののあわれ、である。

それを、源氏物語からも、観るとする。

何故、私が、自然描写と、風景描写から、それを、観るのかといえば、簡単である。物語を、初めて書くということは、物語とは、何かということを、いつも、考えて書くであろう。そして、内容は、多く、他に影響される。
実際に、それを、研究する者も多い。

このお話は、どこそこの、どれに、影響された云々。
しかし、自然描写、風景描写は、他に影響されない。当時の見たままであろう。

山川草木を、紫式部が、見たままを、書くのである。
それは、また、日本人の、原風景ともあるものである。

であるから、一切の余計な、解説はしない。
原文を、上げて、それを、もののあわれ、という、一点で、観るのである。

桐壺

いづれのおほん時にか、女御更衣あまた侍ひ給ひけるなかに、いとやむごとなききはにはあらぬが、すぐれて時めき給ふ、ありけり。

こうして、はじまる。

いずれの時と、明確にしない。
お話は、昔々と始まるのであるが、いずれの時にか、と、曖昧にする。
ありけり。
そして、それが、あったと結ぶ。
長い長い物語が、始まる。

物語は、書き出しで、決まるというが、それならば、これは、名作である。

いとやむこどなき きはには あらぬが
特別な家柄ではないが。
すぐれて時めき給ふ ありけり
特に寵愛を、受けた、お方がいた。
それを、桐壺更衣と言う。

その、桐壺が、玉のような、子を産み、急死した。

その、桐壺の、辞世の句である。

かぎりとて 別るる道の 悲しきに いかまほしきは 命なりけり

いかまほしきは
行く、生く、とを、かける。

勿論、物語にある、歌は、すべて、紫式部の歌である。

想定して、歌を詠むとは、今までに無いことであった。
新古今辺りから、想定した歌を、多く詠むことになるが、紫は、その、先駆けである。

生きたいのは、行きたいのである。
限りあると知る、命であるが、生きたい。別れたくない。別れて逝きたくないのである。

人は、いつの時代も、そのように思い、死んでいった。今、現在もそうである。
誰もが、歌い、詠むべき歌である。

さて、その、桐壺の段にある、風景描写を見る。

野分だちて、にはかに肌寒き夕暮のほど、つねよりもおぼし出づる事多くて、ゆげひの命婦といふを遣はす。夕月夜のをかしきほどに出だし立てさせ給ひて、やがてながめおはします。かうやうの折りは、御あそびなどせさせ給ひしに、心ことなる物の音をかき鳴らし、はかなく聞え出づる言の葉も、人より異なりしけはひかたちの、面影につと添ひておぼさるるにも、やみのうつつにはなほ劣りけり。

野分が立ち、風が吹く。
肌寒い夕暮れである。
いつもより、いっそう故人を思い、ゆげひの命婦を遣わした。
夕月夜の美しい時刻に、命婦を、出かけさせ、そのまま、深く物思いに沈む。
ながめおはします。
これは、帝の心境である。
眺めるのである。我が心を。
以前なら、こうした月夜は、音の遊びなどをし、更衣は、その中に加わり、
心ことなる物の音をかき鳴らし
優れた音楽の才を発揮し、また、
はかなく聞え出づる言の葉
儚き歌さえも、優れていたのである。
面影は、帝の目に、立ち添い、消えない。
やみのうつつにはなほ劣りけり
しかし、闇の現、現実の闇の中では、無いものである。
幻は、闇に適わないのである。

野分、肌寒き夕暮れ、夕月夜のをかしきほどに出だし立てさせ給ひて、である。
闇の迫る、夕暮れは、特に、物悲しいものだった、当時を思い浮かべると、その様、心に与えぬ訳は無い。
風景は、心模様であった。
それほど、自然と、切り離せない生活なのである。
野分が立てば、心に風が吹くのである。
現実の風だけではなく、心に風が吹くのである。
そのような、人の生活を、想像して、読むことだと、思う。




posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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