2008年07月05日

神仏は妄想である 124

仏道をならうというは、自己をならう也。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。
道元

これをもう少し卑俗な日常生活に適用すれば、社会や会社の中で自分が修養するということは自分ばかりにこだわっていてはだめで、修養しようとする自分をまず捨てなさい。そして常に自分を捨てよう、捨てようとしていれば、むしろ、まわりの人や人間関係によって生かされてくるはずだ。みんなによって生かされるようになれば、自分自身がそういうことを気にしなくてすむことになる。自分の在り方とか気持ちを気にしなくてすむことになる。自分がそういう状態になるということは、他の人もまた、自分の在り方や心を気にしなくていいことになると言えるでしょう。
栗太勇

道元の教えを、易しく解釈すると、このような、考え方が出来るというものである。

自己の心身および他己の心身をして脱落せしむるなり
道元

心身脱落である。
そのために、坐禅という修行形態がある。

道元の文は、最初に結論がある。
だから、迫力があるともいえる。

たき木ははいとなる、さらにかえりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといえども、前後際断せり
道元

たき木が燃えて灰になってしまった。燃えてしまった灰がもしたき木に戻るのであれば、以前はたき木だったけれど、今は灰になっているという言い方もできるだろう。ところが、燃えた灰がたき木に戻ることはありえないのだから、それらの間には、もはや時間的前後関係はない。そうである以上は、灰が後であって、たき木は先にあったんだという言い方自体、意味がない。
たき木はたき木で完結している。・・・
要するに、たき木としては古いとか新しいとかいう比較は許されるが、それ以上に、元々はたき木は木だったとか、あるいは燃えて灰になってしまうというようなことを論じてはならない。それは、もはやたき木の世界ではないからだ。だから「前後際断せり」という言い方が生まれる。たき木となったときから、スパッと以前の以後も、両方とも切り離して考えるべきである。
栗太勇

道元の手法は、皆、これである。

道元が、これだと、思った仏教、禅は、道元の性格に、実に合うものと、道元が、それを、悟ったと、考える。
自己表現の、最も理想とするもの、それが、禅という、形だったのであり、それによって、万人、つまり、衆生を救うと、考えるのは、僭越行為なのである。

自分が、救われたと、信じるのは、一向に問題はないが、それを持って、人を救うとは、誤りである。

そして、それは、道元の思考法に、入らなければ、ならないということである。

これからも、道元の言葉を、書き続けてゆくが、それは、道元流であるということ。その、道元流を、善しとする人には、よいが、合わない人もいる。
合わない人は、道元の禅には、救われない。

生は一時のくらいなり、死も一時のくらいなり。たとえば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもわず、春の夏となるといわぬなり。
道元

一時とは、全時である。
一時の位であるから、それで、完璧な一つの状態である。

つまり、時間的に経過していくと考えると、相対的になってしまう。・・・・
しかし道元は、いまはいま、それがすべてだという。花咲き乱れている春と、雪の降り積もった冬と、並べたり比較してはいかん。それぞれ別の独立しているすべてなのだというのです。
栗太勇

道元を、語る人、この道元の、言葉の明晰さに、また、語るのである。
既成の価値の転換である。

そして、厳密なリアリズムが、道元の禅である。が、それは、道元が、宋に渡り、中国の表現法を持って、我が表現法を、見出したといってもよい。
あくまでも、中国思想の、禅という、やりかたなのである。

正法眼蔵は、幾重にも奥深く錯綜している言葉の密林のようなもので、伝え難い秘密に敢えて表現を与えようとしている苦行そのものの表現と言ってよい。
亀井勝一郎

良く解釈すれば、このようになる。

道元にしかない表現活動であるが、それは、道元に合ったものである。
ここに、問題がある。
それを慕う人にはよいが、そうではない人もいる。
それらの人にも、さあ、道元を読めということは、出来ない。

道元の修行も、そうである。
それを、求める人には、よいが、それを必要としない人には、意味が無い。
万人に意味があるというものは、この世に無い。

この時代は、仏教は、最高の学問であった。
学問自体に、疑問を差し挟む時代ではない。
仏の教えといえば、大手を振って、渡ることが出来る時代である。

江戸時代になり、ようやく、儒者らが、仏教批判に転じるのである。
それまでは、仏教という学問は、批判の対象にもならない。

当時の常識を、もって、見渡すと、宋から、学んで戻った道元の様は、当然、人が受け入れるものという、考え方があった。
隋の頃から、日本にとっては、手本とするべき、大陸の大国である。

天竺から、日本に渡った僧もいるが、それよりも、中国からの僧を、重大に捉え、受け入れている。

中国に、留学することは、当時のステータスだった。
中国思想を通した、釈尊に、帰れという、命題を、道元は行為した。
故に、我は、釈尊の唯一の、法燈を継ぐ者であるという、強大な意識を、持つのである。
それが、大きな自己顕示欲だとは、気付かない。

内大臣久我道親を父とし、摂政藤原元房の息女を母として高貴の家に生まれ、やがて家も傾き孤児となった道元にとって、無常観とともに、こうしたかたちでの自己否定は必然であったと思われる。
亀井勝一郎

果たして、道元の厳しい、行としての、坐禅は、衆生を救いうるものであるか。
限られた者のみに、許される門ではなかったのか。

宋から、帰国し、京都において、弘法行為を行うが、思うように、ならず、遂に、道元は、人里から離れ、福井の地に向かう。

そこを見ることで、道元の、頑なな行為行動を見る。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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