2008年07月04日

もののあわれ235

師走の二十九日に参り、はじめて参りしも今宵ぞかしと思ひ出づれば、こよなう立ち馴れけるもうとましの身のほどやと思ふ。夜いたうふけにけり。前なる人々、「内裏わたりは、なほいとけはひことなり。里にては、今は寝なまし。さもいざとき沓のしげさかな」と、色めかしく言ふを聞く

年暮れて わがよふけゆく 風の音 心のうちの すさまじきかな

この部分は、紫式部日記にあり、宮仕えしたことの、唯一の証拠となっている。

作者が、はじめて宮仕えした日。
宮仕えを、辛いことだと思っていたが、今では、すっかり、馴れきっていることを、嫌な身であると思うのである。
宮中というところは、他とは、全く違っている。
里とは、実家を言う。ここでは、土御門殿にいた時のことである。

さもいざとき沓のしげさかな
寝付けないほど、沓の音がする。

色めかしく言ふを聞く
誰もが、沓の音を、煩いと聞いたのであろう。

今年も暮れて、私も老いてゆく。折から吹く、夜更けの風の音を聞いていると、心が、寒々として、寂しいことである。

心のうちの すさまじきかな
寒々とした心境を、すさまじきかな、という。
この、すさまじき、心の姿も、また、もののあわれ、である。

私も老いてゆくという、現実に、目を背けられない。
誰しも、抱く、老いへの、恐怖である。
それが、静まる時、心には、もののあわれ、というものの、心象風景が、広がる。そして、そこに、身を任せる時、もののあわれ、というものに、抱かれる。


源氏の物語、御前にあるを、殿御覧じて、例のすずろ言ども出できたるついでに、梅の下に敷かれたる紙に書かせたまへる

すきものと 名にし立てれば 見る人の をらで過ぐるは あらじとぞ思ふ

源氏物語が、中宮の前にあるのを、道長が見て、とりとめない冗談を話ていた。
梅の下に敷いてあった、紙に書かせて。

浮気者という、評判が立っている。そなたを見て、口説かずに、済ます人はいないだろう。

すきもの
様々な恋を描いた、源氏の作者であるから、好色な者と、冗談を言うのである。

をらで過ぐるは
梅を手折らずにということで、口説き靡かせないことはない。

とて、たまはせたれば

人にまだ をられぬものを 誰かこの すきものぞとは 口ならしけむ

書いて、歌を下さったので

人には、まだ、口説かれたことは、ありませんのに、誰が、そのような、評判を立てたのでしょう。


渡殿に寝たる夜、戸をたたく人ありと聞けど、恐しさに音もせで明かしたるつとめて

夜もすがら 水鶏よりけに なくなくも 槇の戸口を たたきわびつる
よもすがら いくなよりけに なくなくも まきのとぐちを たたきわびつる

渡殿に、寝た夜、戸を叩く人あり。しかし、恐ろしくて、誰かが、わからないため、夜を明かした朝

昨夜は、水鶏にもまして、泣く泣く、槇の戸口を、夜通し叩きあぐねた

これは、日記にもあり、道長の歌としている。

返し

ただならじ とばかりたたく 水鶏ゆえ あけてはいかに くやしからまし

お返し

ただごとでは、あるまいと思われるほどに、戸を叩く水鶏なのに、戸を開けては、どんなに、悔しい思いをしたことでしょう。

とばかりたたく
と思うばかりに、叩く。

何故、戸を開けては、悔しい思いをするのか。

相手が、道長だと、知れば、開けない訳にはかないのだ。


題知らず

世の中を なに嘆かまし 山桜 花見るほどの 心なりせば

後拾遺集に載る、題しらずである。

山桜の花を見ている心のように、物思いのない心ならば、この世の中を、どうして、嘆こう。

花を愛でる心で、いたいものだ。
いつも、花を見ている心境でいたい。
そうすれば、この世の中の、憂きことを、忘れる、忘れられる。

これで、最後の歌になる。
私は、これを、書きつつ、いつも、紫式部が、世の中を、憂きものと、思う心が、不思議だった。
源氏物語という、雅を描いた作者が、何故、こうも、憂鬱なのかと。
しかし、憂きことは、世の習いなのである。

生きることを、憂きこと、と観たものである。
それも、一つの人生の、見方である。

もののあわれ、というものを、憂きとする、心境もあっていい。
もののあわれ、というもの、おおよそ、すべての、心境を、抱擁する。

世の中を なに嘆くかな 春桜 歌詠うほどの 心なりせば 天山

次に、源氏物語に、分け入って行く。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれに第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。