2008年07月02日

もののあわれ233

日記歌

これは、古本にあるのみ。
紫式部日記の歌にないものを、抜き出したものである。

三十講の五巻、五月五日なり。今日しもあたりつらむ提婆品を思ふに、阿私仙よりも、この殿の御ためにや、木の実もひろひおかせけむと、思ひやられて

妙なりや 今日は五月の 五日とて いつつの巻に あへる御法も
たえなりや きょうはさつきの いつかとて いつつのまきに あへるみのりも

法華経は、八巻で二十八品である。これに、開経と結経二巻を加えた、三十の経巻を、一日、一巻、または、二巻、講ずることである。

その中でも、提婆品は、最も、尊ばれ、それの、講じられる日は、盛況であったという。

それは、仏陀に、法華経を説いたといわれる、仙人である。
仏陀は、それを得るために、木の実を採り、水を汲み、蒔きを拾うなどして、阿私仙に仕えたと、その経にいう。
その日は、それに因んだ、行事が、執り行われる。

尊いことだ。今日は、五月の五日である。丁度、五巻が講じられることになった、法華経も、今日の行事も。

法華経は、誰が書いたのか、不明である。
仏陀の滅後に、多くの人が、それなりの、考えで、経典を書いた。特に、大乗といわれる、経典は、数多い。

池の水の、ただこの下に、かがり火にみあかしの光りあひて、昼よりもさやかなるを見、思ふこと少なくは、をかしうもありぬべきをりかなと、かたはしうち思ひめぐらすにも、まづぞ涙ぐまれける

かがり火の 影もさわがぬ 池水に 幾千代すまむ 法の光ぞ
かがりびの かげもさわがぬ いけみずに いくちよすまむ のりのひかりぞ

池の水が迫っている。
御堂の丁度、この下にあって、篝火と御灯明が光っている。
その輝きは、昼をも、思わせるもの。
物思いが、少なければ、風情に酔うだろう。
わずかに、我が身のことを、考えるにつけて。

篝火が、静かに写る池の水。
仏の法は、幾千年と、澄んで、宿ることでしょう。

仏の法の光を宿した、土御門殿の、栄光を祝うものである。

おほやけごとに言ひまぎらはすを、大納言の君

澄める池の 底まで照らす かがり火に まばゆきまでも うきわが身かな

おほやけごと 
表向きのこと、である。
私事は、隠して。
大納言とは、女房である。道長の妻倫子と、義理の兄弟である、源扶養の女。

澄み切った池の底まで、照らす篝火が明るく、眩しく恥ずかしいまでに、我が身の、不幸せを思います。

まばゆく
こちらが、恥ずかしくなるほど、輝く光である。
現代の、まぶしい、とは、別物である。

五月五日、もろともに眺めあかして、あかうなれば入りぬ。いと長き根を包みてさし出でたまへり。小少将の君

小少将と、眺め明かして、それぞれが、菖蒲の長い根を、紙に包んで、贈り合うのである。
菖蒲は、健康、凶を祓うといわれる。

すべて、世の辛さに、泣けて、菖蒲の行事の過ぎた今日まで、残った、この根のように、今日も、泣く音が、絶えません。どう思われますか。

返し
なにごとと あやめはわかで 今日もなほ たもとにあまる ねこそ絶えせね

お返し

頂戴した、菖蒲の根が長く、懐に、包みきれません。
今日もまた、何のために、泣くのでしょう。
涙で、袖を、抑えきれず、泣く音が、絶えません。

当時は、涙を流すということ、当然の有様だったと、思える。
涙もろいのである。
心を、外の風に、そのまま、当てているような、ものである。
故に、多く、泣く。

あやめはわかで
あやめ、とは、条理とか、節目の意味で、根と、音は、係り言葉である。
わかで、とは、節目の立つ判断が出来ないという。

何が何か解らぬが、悲しいこと、泣けることどもある、という。

当時の常識的、心情と思えば、理解できる。
人の世は、儚いのであり、無常であり、哀れなのである。
それが、底辺に流れている。

歌は、それを、表現する。また、歌によって、昇華するのである。

たもとにあまる ねこそ絶えせね
自分の袂には、溢れるほどの、涙である。それが、絶えないのである。
仏の法は、それからの、救いと、見る。

そのように、仏教によって、新しい観念が、生まれたのである。
当時は、そのようだった。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれに第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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