2008年07月02日

神仏は妄想である 121

神仏は妄想である、を、書いているが、私は、信仰を否定するものではない。
信仰とは、神仏が無くても、あるものである。
更に、信仰とは、極めて個人的情緒にあるもので、他が、侵すことが、出来ないものである。
言えば、それは、一人の人間の尊厳であり、それを、侵すことは、大罪である。

この世に罪というものが、あれば、それは、個人の心を、侵すことである。

一応、浄土門を終わるが、まだまだ、仏教については、書く。その所々に、繰り返すことがあるかもしれない。

罪とは、個人の心を侵すことであり、それは、心を有する、肉体を侵すことである。
肉体を侵すとは、殺すことである。
仏陀の、殺生を戒めたのは、それである。
すなわち、心は、肉体である。肉体を、離れて心は、無い。
心身という言葉は、真実である。

これは、このエッセイに余計なことであるが、法然について、最後に、私が彼を尊敬する、行為を言う。

まず、鎌倉時代の精神の幕開けを、万人平等を掲げ、更に、既成仏教が、言わない、女人往生と言い、女性も、男性と、同じ位置に置いたことである。
これは、画期的なことである。
今で言えば、男女平等を説いたのである。
人間として、同じく尊いものであると。

そして、法然は、一切、政治に関与しなかったということである。

流罪を受けた時、法然は、それを、朝恩であると言う。
勿論、皮肉もあるだろうが、決して、激して、批判することなく、恩として、受けるという。念仏禁止令が、発せられて、四国に、流される。その、四国に、念仏を伝えることが出来るのである。これは、恩である。
勿論、それは、禁止令を犯すことであるが、それは、馬耳東風である。

念仏を広めることは、朝廷への、反逆であるが、法然は、いずれの時、それが、解除されることを知っている。
そして、時代は、その通りになった。

天皇という存在を否定することもなかった。何となれば、天皇も、阿弥陀の救いの一人であり、大切な、救われる一人である。

政治は、関わらぬという、姿勢は、この、法然からの、宗教家の有り様であると、見る。
法然は、宮廷政治の中枢にいた者からの帰依を受けている。政治的に、敵対する者をも、法然は、当然の如くに、受け入れ、念仏を伝えている。

更に、天皇家も、例外ではない。
後白河天皇、高倉天皇、後白河の姉である、上西門院、式内親王を、含めて、多くの皇女や女御たちを、教化してきたのである。

更に、平家一門からも、信任を得て、更には、それを、滅ぼした、源頼朝にも、慕われたのである。
これは、宗教家、心を、扱う者の、面目である。

いつでも、政治に口を差し入れることが、出来た。しかし、そのようなことは、一つも無い。一切、政治とは、関わらぬ姿勢を、貫く。

彼は、人の心を相手にする者であるとの、明確な、自覚があった。

そして、私が、最も評価するのは、寺の一つも、建てなかったことである。

宗教家は、人の心を扱うのであり、その他一切は、持たない。
持つはずが無い。

その一点でさえ、法然の真実が、解る。
私が、法然を、評価するのは、それである。

人は、無いものでも、在ると、信じて生きなければならない時がある。
どんなに、苦しい時でも、生きること。そのために、方便があってよい。もし、それが、念仏であるとしたなら、それを、否定する何物も無い。

生きるために、体を売る人、遊女にも、救われると説く、法然の心情を、私も理解する。
生きるために。
それこそ、宗教家が、負うべき問題であり、それこそ、多くの人に寄り添う、行為であろう。
生きること。

往生を信じて、生きられるのならば、私は、それを、否定しない。それどころか、それで、生きられるならば、大いに、念仏するべきである。

生まれたからには、生きねばならない。
どんな、方便を使っても、生きることである。
それが、生まれた者の、真実である。

この世に、真理というものがあるならば、生まれた者は、生きることなのである。

予が遺跡は諸州に遍満すべし。故は如何となれば、念仏の興行は愚老の勧化なり。されば念仏を修せんところは、貴賎を論ぜず、海人魚人が苫屋までも、みなこれ予が遺跡なるべし。
弟子の、法蓮房が、老いた法然を見舞いに、訪れた時に、古来の先徳、つまり、坊さんは、皆、その遺跡、多くは、寺などがあるが、何も無いのである。どこを、遺跡にしたらよいのですかとの、尋ねに、こうして、答えるのである。

念仏というものを、通して、法然は、生きるということを、生きたという点で、私は、評価する。
そして、その、自らの、テリトリーの、明確さである。

心を扱う者、それ以上の僭越行為を成さない。

一人の人間の心を扱うのである。
それ以外の、何に、関与するというのか。

その当時も、天台座主の、慈円は、念仏宗の多くの数に、それを、自分の配下につけるべくの、行動を取る。
法然の、考え方を、徹底批判したのであるが、あまりにも、多くの人が集うのである。それを、天台の支配下に置くべくの行動を取る。

権力志向である。

日蓮になると、国の政治に、口を挟むという、誇大妄想である。

私は、法然を、宗教家の、見本としてもいいと、考えるのである。
それを、引き受けた、親鸞も、寺を持たない。
一遍に至っては、結果、残すものは、南無阿弥陀仏である。
見事な、生き様である。

一切、この世の物という、物を持たない。
故に、後世に残るべき、生き方である。

万人平等、政治に関与せず、建物を、残さない。

これは、宗教の、基本的姿勢である。
彼らの、残すべきものは、その、心である。
法然は、自らの、書き物も、残さない。
法然に関する書き物は、その周辺の者の、手による。

悟るということより、塵一つ残さない行為行動こそ、真っ当な感覚である。

私は、神仏は妄想である、を、書いているので、これ以上の、彼らの生き方には、触れない。

何が、評価できるのか、そして、何を批判するのか。
私の問題は、それである。

信仰とは、極めて、個人的な情緒であると言った。
それは、侵してならない、領域である。

子供が、宇宙を見て、円盤を信じているならば、それを、どうして、否定することか。
それを、信じて、彼が、その謎を解くべく、学びを始めるのであれば、誰が、それを、止められよう。
止めることは、罪である。

罪というものが、あるならば、そういう行為である。
それ以外に、罪と、呼ぶものは無い。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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