2008年06月20日

神仏は妄想である 99

念仏とは二つの段階が考えられた。一つは心に仏を観ずることである。即ち憶念であり、思念である。一つは口に仏を称えることで、六字の称名である。観仏にも色々あろう。三十一あるという仏の相好を想い浮かべることもあろう。仏の国、浄土の相を想い描くこともあろう。
柳宗悦

だが、無智な者、遅鈍な者はこの観仏に堪えることは出来ないという。
それゆえ、念仏は、下根の者のために、称名の道を教えた。
ただ、口に仏のみ名を称えるだけであるから、口業念仏という。
源信は、そのいずれも、勧めたが、彼は、観仏が、称名に優ると、考えていた。

観仏は、上根の者のする念仏であり、称名の念仏は、下根の者のする、念仏であるというのだ。
鎌倉初期まで、それを、誰も疑わなかった。
しかし、称名の上位を述べたのが、法然である。

低いとされた、称名念仏に、深い意味づけを、行ったのが、法然であり、それは、中国仏教にも無いものである。
法然の、創造である。

確かに、天台宗などでも、称名念仏の修行という、一つはあったが、それは、一宗になるようなものではなかった。

簡単に言えば、衆生とは、愚かで、修行など出来ない者であり、下賎の者であるという意識である。

下品、げぼん、の者とも、言う。
要するに、愚かなる大衆という意味である。

さらに、
口称に依ることは絶対の他力を立てることである。仏自らが、自らをして残りなく仏たらしめることである。口称の時、人は己を見てはならぬ。仏をのみ見つむべきである。自らに幾ばくの力があってか、仏の力を疑うのであろうか。余分に仏の力を仰げば、口称に何の疑いが起こるであろう。その口称すらも、自らの口称ではないのを、とくと省みるべきではないか。
柳宗悦

ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑ひなく往生するぞと思ひとりて申す外には、別の仔細候はず
法然 一枚起請文

疑いなく、往生すると、信じれば、いいと言う。
更に、疑いつつ、念仏しても、救われる、ということになる。
それを、深さというのか、迷いというのか。

創作の経典の、創作の、阿弥陀如来を信じて、念仏して、救われるという、心理は、如何なるものか。

自己完結である。

妄想の、ユートピアを信じて、救われると、思い込んで、念仏するのも、我ではなく、仏であると、信じきって、念仏すれば、救われる。

救いとは、極楽に往生、つまり、生まれると、考える。

念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法を能く能く学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智の輩に同うして、知者の振舞をせずして、ただ一向念仏すべし
法然 一枚起請文

ここには、全く、科学というものが無い。
実証ということは、無い。仮設である。その、仮説を、信じて、ただ、念仏すれば、救われると、信じて念仏せよと言う。

当時の人々には、通用するが、現代には、通用しない。

阿弥陀仏の、おわす、極楽浄土に、生まれるという、意味が無い。
何故、極楽に生まれるべきなのか、という、疑問に、答えられない。

ただ、信じて、善しとする。

それを、深めたのが、親鸞である。いずれ、親鸞について、書く。

かるが故に知んぬ。念仏は易きが故に一切に通ず。諸行は難き故に諸機に通ぜず。しれば即ち一切衆生をして、平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、以って本願とし給ふか。もしそれ造像起塔をもて、本願とし給はば、即ち貧窮困窮の類は、定めて往生の望を絶たん。しかるに富貴の者は少なく、貧賤の者は甚だ多し。もし智慧高才をもて、本願とし給はば、即ち愚鈍下智の者は、定めて往生の望を絶たん。然るに智慧ある者は少く、愚痴なる者は甚だ多し。
法然 選択本願念仏集

要するに、30年間、仏教を学んだ法然は、最早、仏教以外の、考え方というものを、知ることがなかった。
どうしても、仏教の中に、何かを見出さなければ、ならなかったのである。

宗教家の、多くが陥る、救い病である。
救済病である。

人間は、決して、物事を、客観的に、見ることは出来ない。
客観的に、物事を見て、判断するとしても、それは、その人の、主観の内で、行われる。
つまり、客観的という、主観によってしか、物事を、見ることが出来ないのである。
子供が、客観的に、物事を見ることが、出来ないと、同じように、大人になっても、それは、無理なのである。

文明から、離れて暮らす人々は、決して、文明を、理解できない。
どうしても、その場、生きる場からしか、物事を、判断することは出来ない。
同じように、我という意識以外から、我を、観るということは、不可能である。

主観を、深める、高めるしか、方法が無いのである。

法然は、仏教の内から、抜けられなかった。
そこから、雁字搦めにされて、その中からの、救いという観念のみにしか、広げることが、出来なかった。

人は、知ること、以外の世界を、知らないのである。

だから、謙虚に、成らざるを得ない。
仏教という、狭い世界の中で、蠢くことしか、方法がなかったのである。

法然は、大衆に、仏教の救いというものを、開示したという、点では、大いに、評価出来ると、言ったが、それは、その時代で、終わった。

一期のものであった。

更に、この、浄土思想が、多くの人を、抑鬱状態に、陥れたことを、観る。

罪の意識である。

どこの、宗教も、そうであるが、この罪意識というものが、強迫観念となる。
親鸞などは、その、最もたる人物である。

強迫観念から、抑鬱状態を、高じさせて、抑鬱状態が、当たり前のようになるのである。
つまり、念仏は、そのまま、抑鬱神経症のように、念仏する者に、覆いかぶさる。

現在なら、抑鬱剤一つで、解放する。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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