2008年06月18日

もののあわれ218

絵に物の怪のつきたる女のみにくきかたかきたる後に、鬼になりたるもとの妻を、小法師のしばりたるかたかきて、男は経読みて物の怪せめたるところを見て

亡き人に かごとをかけて わづらふも おのが心の 鬼にやあらぬ

物の怪の憑いた、醜い女の姿を描いた、背後に、鬼の姿になった、先妻を、小法師が縛り、更に、夫が、お経を読んで、物の怪を退散させようとしている絵を見て。

妻に憑いた、物の怪を、夫が亡き先妻のせいにして、てこずっているということは、我が身の内にある、鬼に、苦しんでいるということでは、ないだろうか。

実に、冷静沈着な判断の歌である。

当時は、不思議な現象を、物の怪として、扱い、加持祈祷などをしていた頃である。
そんな中で、我が身のこころの内にあるものと、看破したということは、実に、冷静であり、真っ当な感覚である。
この、冷静さが、紫式部を、物語作家にしたのである。

我が心の内にある鬼。

心の鬼とは、疑心暗鬼である。
暗鬼、つまり、心の暗闇に存在する、鬼であり、他でもない、我が内にあると、観たのである。

人は、我の妄想を見て、何物かだと、思う。しかし、それは、我の妄想なのである。
紫も、浄土思想に、影響された者であるが、決して、その救いという、観念に流されなかった。

かごとをかけて わづらふも
理由をつけて、煩うが、それは、まさに、我自身であったという。
現代の宗教信者に、聞かせたいものである。

返し

ことわりや 君が心の 闇なれば 鬼の影とは しるく見ゆらむ

お返し

なるほど、言われる通りです。
あなたの心が、また、あれこれと迷い闇ゆえに、物の怪の疑心暗鬼の、鬼の正体を見破ったのでしょう。

これも、冷静な受け止め方である。
あなたも、闇なれば、とは、また、おもしろい。

鬼の影とは しるく見ゆらむ
鬼の影であると、はっきりと、見たのでしょう。

作者の、侍女の歌である。

さすがに、侍女も、鋭い。

絵に、梅の花見るとて、女の、妻戸押し開けて、二三人居たるに、みな人々寝たるけしきいたるに、いとさだすぎたるおもとの、つらづえついていて眺めたるかたあるところ

春の夜の 闇のまどひに 色ならぬ 心に花の 香をぞしめつる

梅の花を見ている絵を見る。
女が、二三人いて、眠っている様。
いとさだすぎたるおもと
年老いた女房であり、おもと、とは、身分ある女房への、敬称である。
その女房が、頬杖をついて眺めている様を、見て。

春の夜の、闇にまぎれて、花の美しさは、見えないが、色気を持たない、心の梅の、香りを、深く味わうことができた。

さだすぎたるおもと、の、心を観て、詠む歌である。

色ならぬ 心の花の
女の、盛りを過ぎて、色気を持たない、枯れた風情の、女の姿である。それに、心の花を、観ているのである。

心の花に 香をぞしめつる
しめつる、占めるのである。

心の花にこそ、香りが、充満している。

花は心 種は技なるべし
世阿弥が、語る。
風姿花伝

心を込めるから、良いのではない。
心を込めるためには、技である種を、持たなければならない。
技を極めてこそ、心の花というものが、十二分に表現できるのである。

もののあわれ、を、所作として、表現する際の、極意である。

いずれ、世阿弥の風姿花伝も、紹介する。

同じ絵に、嵯峨野に花見る女車あり。なれたる童の、萩の花に立ち寄りて、折りとるところ

さを鹿の しかならはせる 萩なれや 立ち寄るからに おのれ折り伏す

同じ絵に、女車、牛車である、なれたる童、物慣れた女の童が、萩の花の前で、佇み、それが、折て、垂れるのを見る。

牡鹿が、いつも、そのように慣らしているのか、童が立ち寄ると、すぐに、萩が、自ら折れ曲がり、頭を下げているようである。

童は、わらは、であり、女の召使のことである。
女の童、めのわらは、と読む。

鹿が、萩の花を、妻として、慕うという、歌が古来からあった。
それを、持っての歌である。

しかならはせる
そのように、という意味で、鹿の縁語とされる。
ならはせる
慣れさせるという、意味である。




posted by 天山 at 00:00| もののあわれに第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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