2008年06月17日

もののあわれ217

亡くなりし人の女の、親の手書きつけたりける物を見て、いひたりし

夕霧に み島がくれし 鴛鳥の子の 跡を見る見る まどはるるかな
ゆうぎりに みしまがくれし をしのこの あとをみるみる まどはるるかな

亡くなりし人の、女、むすめ、とは、亡夫の他の妻の娘のこと。
親の筆で、書き付けた物を、見て、歌を詠む。

夕霧に、島影の姿が、隠れた、をしの鳥の足跡を見て、途方に暮れる、子のように、亡くなった父の筆跡を見ながら、悲嘆に暮れている。

跡、筆跡の跡、足跡の、跡を、掛けている。

跡を見る見る まどはるるかな
跡を見つめ続けるのである。そして、まどはるる、かな、である。この悲嘆は、はるる、という、心境である。はるる、とは、遥かに思う。
その哀しみは、手の届かないほど遠い哀しみである。
我が哀しみも、手が届かないほど、遠いのである。

悲しいと、言っても、それは、千差万別である。
人間は、悲しみ、哀しみを、生きて歴史を、積み重ねてきた。

この、悲というものを、慈悲として、仏教は、象徴した。
この悲は、深い祈りになる。
それは、悲に、対する、共感という心的状態を生むのである。

実は、もののあわれを、漢訳すれば、慈悲になるのである。
慈は、慈しみである。
いつくしみ、それを、共感する心、つまり、もののあわれ、というものである。

悲しみを共感する心。
もののあわれ、の、一つの心象風景である。

同じ人、荒れたる宿の桜のおもしろきこととて、折りておこせたるに

散る花を 嘆きし人は 木のもとの さびしきことや かねて知りけむ
ちるはなを なげきしひとは このもとの さびしきことや かねてしりけむ
「思ひ絶えせぬ」と、亡き人の言ひけることを思ひ出たるなりし。

父が亡くなり、手入れの出来ない荒れた我が家でも、桜は、春を忘れず、美しく咲いた。
折りて、おこせる
その枝を、折り、歌を添える。

桜の花の散ることを、嘆いていた、あの方は、花の散った跡に残る、木のもとの、寂しさを、さらに、亡くなった後の、子供の寂しさを、知っていたのでしょうか。

残された者の、悲しみと、寂しさを、亡き人は知るのだろうか。
それは、誰にも、解らない。
死者は、語らない。
いつの世も、死者は、語らない。

昔の人は、「死人に口無し」と言った。
だが、語らない死者が、多くを語ることもある。
それは、残されたものを、見た時である。
更に、その生き方である。

死者の、生き様は、確定している。
揺ぎ無いものになっている。
これ程、確実なことはない。

生者は、いつも、不安定である。確定していない。
生とは、確定しない、不安定なことである。つまり、動いている。刹那も、留まることがない。
心とは、そういう、モノである。

大脳生理学でも、脳が心だと、言えなくなってきた。
行動を起こす、ほんの少し前に、つまり、脳が、指令を出す前に、行動が起こるという、実験結果が、出た。

脳が、心であると、唱えていた学者たちは、愕然とした。
一体、何があるのか。
脳でないとすれば、何が、動かすのか。
心とは、どこにあるのか。
未だ、不明である。というより、不明であるということが、証明された。

科学は、一秒たりとも、定説に留まらない。
仮説は、いつも、新しく提言される。そして、否定されたり、肯定されたりしつつ、進歩する。

霊学から言えば、心とは、水落の辺りにあるとする。
肉体の胸である。
丸みを帯びた球体である。

オーラ測定器が、出来たが、それは、微量な電流の色合いである。
次に、心を計るものが、出来るだろう。

今は、それ以上を言えない。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれに第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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