2008年06月16日

もののあわれ216

花の散るころ、梨の花といふも桜も、夕暮れの風の騒ぎに、いづれと見えぬ色なるを

花といはば いづれかにほひ なしと見む 散りかふ色の ことならなくに

花の散る頃、梨の花か、桜の花か、解らぬような花が、夕暮れの風によって、さらに、どちらかと、区別がつかない。

桜も、梨の花も、花である。美しくない梨の花と、見るものだろうか。風に散り乱れる花の色は、違わない。

いづれかにほひ
にほひ、とは、美しさを言う。
匂いという言葉は、香りとされるが、それ以前は、姿の美しさを言う。
紅匂う、くれないにおう、などというのは、紅のように、美しいということになる。

なし
無しに、梨をかけた。

遠き所へ行きし人の亡くなりにけるを、親はらからなど帰り来て、悲しきこと言ひたるに

いづかたの 雲路と聞かば 尋ねまし つらはなれたる 雁がゆくへを

人の死を悲しむ、歌である。
親兄弟と共に、遠い所へ行った人。つまり、姉妹の約束をした友人のことである。
親、同胞、はらから、が、帰りて、哀しみを言う。

どちらの、雲路だったと、聞いたら、探しに行くのですが。
親子の列から、離れた、あの雁の行くへを。

雲路
雲の中にある、道である。
そんな道は無いが、あると、想定する。
死者の行くへを、雲路にあると思う心が、懐かしい。

群れして、飛ぶ雁の姿に、亡くなった人を、列から、離れた雁と、なぞらえている。

亡き人は、いづかたへ、行くのだろうか。
死別の哀しみは、また、悲しいものである。

去年の夏より薄鈍着たる人に、女院かくれたまへるまたの春、いたう霞みたる夕暮れに、人のさしおかせたる

雲の上の もの思ふ春は 墨染に 霞む空さえ あはれなるかな

昨年の夏から、薄墨色の喪服を着ていた人、つまり、作者である。
夫、宣孝を亡くし、喪に服していたのだ。
その年の、春、東三条院詔子が亡くなった。
その日は、大変、霞のかかった夕暮れだった。
ある人が、使者に、持たせて来た、歌である。

帝が、喪に服して、哀しみにくれるこの春の、夕暮れは、喪服の色に、霞んで、空まで哀しみに、感じられる。

お悔やみの歌である。

あはれなるかな
どうしょうもない、言い表しえない気持ちを言う。
あはれ、は、心境の極地である。

喜怒哀楽の、すべての、極地を、あはれ、という。

結婚、三年を過ぎて、夫を、亡くしたのである。まだ、作者は、三十五前後であろう。幼い子、一人を残している。
源氏物語が、いよいよ、書き始められる時期である。
夫を、亡くした哀しみ、憂き世の思想である。
この世は、住みづらい、憂き世なのであるという確信。

なんとも、救い難い心境の中で、物語への、着想が、進んだと思える。
998年に結婚し、1001年に、夫と死別、そして、1005年、中宮彰子の所へ、出仕することになる。
これは、物語の作者として、認められたからだと、言われる。

物語は、女の慰みものとされた時代である。しかし、源氏物語は、男にも、読まれた。
それは、画期的なことであった。

上記の歌の
返しに

なにかこの ほどなき袖を ぬらすらむ 霞の衣 なべて着る世に

取るに足らない、私のような者が、夫の死に、哀しみ暮れているでしょうか。
国中の人が、喪服を着ている時です。

ほどなき袖
狭い袖の意味だが、この場合は、自分の哀しみを、謙遜して言う。
霞の衣
喪服のこと。

源氏物語の中でも、霞の衣を、喪服の意味に用いている。

帝の喪に、事寄せた、お見舞いの歌であるから、非常に、身を低くして、答えた歌になっている。

当時、帝は、仰ぐお方である。
その、お方の喪と、自分の喪とは、別物である。

なにかこの ほどなき袖を
このような、身分の者の、袖の涙など、帝の涙に比べたら、ということになる。

それは、当時の礼儀作法である。

自分の哀しみを、それによって、突き放すことが出来た。
しかし、悲嘆に暮れる心は、彼女に、物語への、情熱を生む。
この世は、住みにくい所という意識は、憂き世の意識である。以後、彼女は、この、憂き世の思いと共に、生きることになる。
書くことで、救いを得ようとするのか。

歌ではなく、散文という形に、彼女が、目覚めたところのものを、見つめてみたい。
それが、いつしか、もののあわれ、というものに、向かっていた。
歌道にあるところの、もののあわれ、というものを、物語という形で、見つめ直すのである。

散文作家ならば、一度は、源氏物語というものの、有様を、考えるという、物語を書くのである。
そして、それは、更に、世界の小説の最初であった。

更に、驚くべきことは、未完なのである。
結末が無い物語である。
それ、文学の原点ではないか。

つまり、書き切れなかったのである。
何をか。
もののあわれ、というものを、である。

いつまでも、その姿を、求め続けてゆくものであることを、源氏物語は、伝える。

つまり、もののあわれ、というものは、完成したものではなく、いつも、いつも、書き続けられる、心象風景なのである。

書き加えられ、書き加えられて、終わることのないもの、それが、もののあわれ、というものの、正体である。

日本人は、いつまでも、もののあわれ、について、思索を、迫られる。
そして、その姿勢こそ、日本人なのである。
民族の、テーマが、もののあわれ、というものなのである。

如何に、神仏の、救いがあろうと、その心底には、この世の姿と、格闘する、もののあわれ、というものを、見つめ続けてゆかなければ、ならない。
大袈裟に、言えば、それが、民族の根本原理である。

たゆたう、曖昧で、微妙な、心象風景。
不安定で、今にも、消滅するかのように、思える心象風景である、もののあわれ、こそ、民族を、支える、心根なのである。
私は、そう思う。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれに第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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