2008年06月16日

神仏は妄想である 96

自力、他力の二道は、互いに異なることに意味はあるが、異なったままに一つに即することに、更にその威儀がありはしまいか。もし一つに即することがなくば、二つの道は中途に止まっているものとして、厳しく批判されてよい。私は何も自他二道が始めから同一だと主張するのではなく、異なることによってかえって一つに即する所以に、驚嘆を覚えるのである。
柳宗悦

自力、他力という観念は、どこからきたのか。
中国思想である。インド大乗思想では、まだ、未分化であり、まして、仏陀の教えに、自力も他力も無い。言えば、そんな観念は無い。
仏陀は、人は行為によって、成るものに成るという。仏になりたければ、仏として生きればよい。ただ、それだけである。

例えば、禅宗は、座禅によって、悟りを求める。
自力である。

他力は、弥陀の本願を信じて、ただ、信心による。
後で、弥陀の本願というものを、見る。

両者は、結果的に、同じところに行き着くものだという。

むしろ一つに即するための分化だと見るべきであろう。男女が分かれるのは、分かれたそのままがよいということではない。一つたるがための差異なのである。分化することに目的はない。まして対立し反抗するということに、意味があるのではない。分化することで結合があり、結合し得るのは分化があるからだといえるのであろう。一方を肯定することで他方を否定すべきではなく、お互いが相即されるために差異が要請されているのである。
浄土門に絶大な意義があるのは、その要請のためだといわねばならぬ。
柳宗悦

押しても駄目なら、引いてみな、である。
要するに、同じ穴の狢である。

柳氏の、文を、茶化すのではない。
その通りである。
仏教においては。

客観的に、見れば、自力も他力も、同じものである。
要するに、仏になるとか、悟るとか、往生するとか、救われるとか、と、いうことのためにである。
同じであろう。

いずれにしても、目的は、同じである。
どちらにせよ、性格であろうし、方法であろう。

問題は、それ以前のことである。

柳宗悦氏は、実に、有意義な活動をしている。
民芸品の、価値の再確認である。
それを、浄土門の、教えから、説いているのである。
それも、一つの価値付けといえる。

だが、
平凡な常識ではあるが、ひとわたり事実を語ってゆこう。日本の文化史の中で何が最も高い位を占めるか。何としても偉く深いのは、幾人かの仏徒たちの行跡である。仏教が培った高僧たちの言葉や行為である。あるいはまた妙好人の如き篤い信者たちの一生である。「妙好」とは白蓮華の意で浄い心を意味する。見渡しても彼ら以上の日本の姿は見えぬ。それらの人々のことを想うと、仏教がどんなに深いものであるか、または人間がどれだけの高さまで行き着けるものなのかが分かる。実にそれらの僧侶や信徒たちが現れたばかりに、日本の文化には千鈞の重みが加わる。もしそれらの人々がいなかったら、日本は何を中外に誇り得るであろう。
柳宗悦

上記、実に、認識不足である。
彼ら以上の日本は見えぬ。
日本は何を中外に誇り得るであろう。
何という、誤りか。

それでは、あの、シルクロードに、伝わった仏教が、何故、イスラムに取って代わられたのか。
仏教ではなく、日本人だから、仏教を生かせた、また、応用して、更に、精神的に高いものに、仕立てたのである。

仏教によると、思い込むのは、柳氏の自由であるが、全く違う。

更に、彼ら以上の日本は見えぬというのは、本人が見えないだけで、見ていないのである。

私には、万葉の時代の、素晴らしい日本人が見える。
更に、舒明天皇から、庶民に至る面々に、脱帽するのである。

さらに、
日本に仏教が伝わらなかったら、日本は精神的にどれだけの深みを持ち得たであろう。

仏教の前にはまだ薄い淡い影に過ぎまい。

と言う。

精神的深みを、どのように定義しているのか、解らない。
また、薄い淡い影とは、何か。

私の言葉で、言えば、万葉の精神の深みを、知ってのことかと、言う。
そして、薄い淡い影とは、たゆたう心、曖昧微妙な心である。これは、日本人の最大の特徴であり、精神の格調の高さである。

微妙繊細な、心が、もののあわれ、という、心象風景を、描いたのである。

柳氏は、仏教に関わる僧たちの、文学的著述に、没頭しているに過ぎないのである。

勿論、柳氏が、それを、精神的高さと、評価するのは、否定しないが、日本を、知らないと言える。

最も、勘違いしているのは、仏教によるのではなく、それが、日本人によった、からである。

仏教文学を、これだけ、高みに押し上げたのは、日本人だけである。

極めつけは、
わが民族に無限の自信を贈るのは、吾吾の歴史にそれらの人々の足跡を持つからである。
と言う。

私は言う。
我々の民族に無限の自信を贈るのは、万葉集や、源氏物語における、更に、和歌の歌道における、人間の道であると。

決して、人間を、超越したような、化け物を、置かなかったことである。

仏教、更に、それ以前の、インドバラモン等々のように、人間を超えたモノ、化け物を、主に、拝まず、崇めず、呪術を行わず、自然に、共生し、共存し、更に、自然を、カミの依り代、よりしろ、として、自然を、畏敬した心情である。

そこには、何も、超越したモノは無かった。
決して、自然を、超えるという、傲慢な思想はなかったのである。

文字に迷うのが、宗教である。
更に、言葉に迷うのが、宗教である。

南無阿弥陀仏という、六文字というが、なむあみだぶつ、とは、音では、七つである。

日本には、一音に意味があり、ウーと、唱えれば、呼び出しの音霊であり、オーと、唱えれば、送り出しの、音霊となった。

文字の観念に、陥らなかった、民族である。

文字の羅列を、尊ぶのは、構わないが、それで、日本に、深い精神の云々が無いとは、無知である。

最初に、柳氏も、言う。
教学の言葉の、羅列で、得意になる、学者、僧の面々を。

仏教の堕落の甚だしさは、文字による、言葉による。

不立文字という、言葉に出来ない教えとして言う、禅宗さえ、溢れる程の、言葉を使う。
徹底して、言葉遊びをするのである。

それが、精神の深さというものか。
いずれ、禅宗にも、触れるが、最も堕落したのは、禅宗である。
仏陀の、教えを、言葉遊びに始終させたのである。
一本の草木を、育てることもせずに、座禅して、言葉遊びをして、のうのうと、生きていたのである。
働くことも、せずに、信徒から、布施を貰い、乞食を名乗ることなく、悟り済ましているという、傲慢極まりない、その、生き様は、唾棄すべきものである。

その修業というもの、農民や、漁民に生き方に、比べれば、天と地の差がある。
もし、極楽という世界があるならば、勿論、無いのだが、極楽行きは、間違いなく、農民、漁民である。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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