2008年06月14日

もののあわれ214

降り積みて、いとむつかしき雪を掻き捨てて、山のやうにしなたるに、人々登りて「なほ、これ出でて見えたまへ」といへば

ふるさとに かへるの山の それならば 心やゆくと ゆきも見てまし

降り積もった、うっとおしいほどの雪を、掻き分けて、山のように積もった雪の上を、登り、「さあ、こちらに来て、御覧なさい」といわれれば

故郷に、帰られるという、あの、かへる山の雪ならば、見ましょうが・・・

雪に閉ざされた世界の中で、都が恋しく、雪山など、見たくないのである。
不機嫌である。

心やゆくと
進んで、行く。

年かへりて、「唐人見に行かむ」といひたりける人の、「春は解くものといかで知らせたてまつらむ」といひたるに

春なれど 白嶺のみゆき いやつもり 解くべきほどの いつとなきかな

越後へ、下った前年に、宋の人が、七十名ほど、若狭に漂流した。それを「見によこう」と誘う人が、「春には、雪が解けるように、私の心に、打ち解けてください」というのである。後に、紫式部の夫になる、人物である。

春になりましたが、こちらの山の雪は、いつ解けるものか、わかりません。
暗に、自分の心の、打ち解けない様子を言う。


近江の守の女懸想すと聞く人の、「ふた心なし」と、つねにいひわたりければ、うるさがりて

みづうみに 友よぶ千鳥 ことならば 八十の湊に 声絶えなせそ

近江守の娘に、言い寄るという噂のある男、「ふた心はない」と、常に言うのを、うるさく思う。

近江の海に、友を求める千鳥よ。いっそのこと、あちこちの、湊に声を掛けなさい。あちこちの人に、声を掛けなさい。

なかなか、面白い。
年頃の、娘の心境である。

この男との、関係が、もっと、面白くなってゆく。

歌絵に、海女の塩焼くかたをかきて、樵り積みたる投木のものに書きて、返しやる

よもの海に 塩焼く海女の 心から やくとはかかる なげきをやつる

書きのせようとする、歌の趣を表した絵に、海女の塩焼く姿がある。
切って積み上げた、薪で、藻塩を焼く、その薪に書いて、返事する。

あちこちの、海辺で、藻塩を焼く海女が、薪を積むように、色々な人に、言い寄る、あなたは、自分から、好きこのみ、歎きを重ねるのでしょう。

恋の歎きを訴えた歌に、返歌したものである。
しかし、このような、歌が詠める、言い方が出来るということは、ある程度、近い関係になっているようである。

女が、つれない歌を詠むのには、訳がある。
それが、次の歌である。

文の上に、朱といふ物をつぶつふとそそきて、「涙の色を」と書きたる人の返り事

くれないの 涙ぞいとど うとまるる うつる心の 色に見ゆれば
  もとより人の女を得たる人なりけり

文の上に、赤い物を、ぽとぽと落とし、「涙の色を見てください」と書く人への、返事。

あなたの、紅の涙だと聞くと、一層うとましく、思えます。
移ろいやすい、あなたの心が、この色で、はっきりと、解ってしまいます。

そして、相手は、しっかりとした、親の元から、妻を得ている男なのである。

これは、結婚前の歌である。

紫式部は、三十近くになって、三人の妻のある、藤原宣孝と、結婚している。宣孝は、四十五歳くらいである。

仲睦まじい頃もあり、一女賢子を産む。
他に、妻のある、宣孝であるから、紫式部は、夜離れ、よがれ、の寂しさを味わうことも、多々あった。

夜離れ、とは、夫婦生活である。
よがれ、という語感が、なんとも、不思議である。

今では、ヨガルという言葉は、セックスの際の、快感を得る時の、喘ぐことを言う。
または、方言としてあるのか。

当時、セックスすること、契りて、と、言うのみ。
セックスから、遠ざかることを、夜離れ、と言う。

現代小説などが、描く、セックス描写がない。つまり、セックスの技巧というものが、未成熟な時代である。
契ることで、それは、解消した。
しかし、その、契る、ということのために、その前後の、心の様が、実に、綾のように、動くのである。

セックスというものも、進化したのであろう。
生殖という意味に、おかなかった、日本人のセックスは、芸術文化として、表現された。
単純に、生殖であるとする、アラブ、西洋の、一神教的、性の文化でない。
ギリシア神話も、セックスに関しては、日本の古代の、セックスに、まつわる、華やかしさは無い。

現代の、セックスの、生殖器を、テーマとするものではなく、セックスにまつわる、心模様に、風情という綾が、掛けられた。
色好みとは、それを、言う。
生殖器好みではない。

ポルノ小説と、純文学の、性小説とは、なんら変わらない。
江戸時代まで、恋と、通常の生活の、夫婦関係というものを、区分けして、考えていたのが、日本人である。
遊郭文化というものが、花開くのも、江戸元禄ではなく、長い年月をかけた、下地があったれば、こそだ。

平安期、妻を、多く持つ男は、沢山いた。
一夫多妻である。
それは、昭和初期まで、妾の、性文化として、残っていた。
それを、容認していた、時代が長い。
そして、女性の、地位向上である。

今は、女性の地位が、向上し、よい時代になったが、今度は、男が、セックスに興味が持てないという、逆転現象が起きている。
また、性に弱くなった、男たちである。

女性器の前で、佇む男たちである。
晒され過ぎたのである。

あれは、明るいところで、見るものではない。薄暗い、光の中で、微かに見えるのが、いい。
だからこそ、セックスが充実した。
不思議は、不思議として、残しておけば、良かったのである。
しかし、手遅れ。

この、病から、抜けるには、百年は、かかる。その間、女性の、受難、セックスに、まつわる受難は続く。
更に、セクシャルマイノリティーという、同性愛が、年毎に、生成発展している。

欧米の、アラブの思想は、これに、対処出来ないのである。ただし、制度は、日本より、進んでいる。しかし、思想としては、対処できない。だが、日本は、思想的には、十二分に、対処できる。
もののあわれ、というものがあるからだ。

愛に、何も捕らわれることは、無い。
制度たけが、遅れているのみ。
それも、時間の問題である。




posted by 天山 at 00:00| もののあわれに第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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