2008年06月14日

神仏は妄想である 93

宗門の人、特に学識ある僧侶の書くものを見ると、述べてある真理が、深く教学に立ち入るにつれ、余りにも専門化されて門外の者には疎遠な感じを起こさせやすい。それに枝葉な問題に精細になると、とかく本質的なことが置き去りにされる。むしろ学問のための宗論で、活きた信仰とはかけ離れてしまう。宗学はそれ自身、立派な存在理由を持つとしても、それが知識の羅列に陥る危険は極めて多い。しばしば特殊な専門家の特殊な問題に終わりやすく、その煩瑣な宗論が、どんなに若い人々と仏教との間に、深い溝を作っているか分からぬ。
柳宗悦 南無阿弥陀仏 より

さて、仏教について、書くことにする。
最初は、浄土教から、始める。

しかし、その前に、結論から、書くべきだと、思っている。

上記、南無阿弥陀仏は、昭和26年から、27,28年にかけ、大法輪という雑誌に、連載されたものである。
広く、多くの読者を、曳きつけたようである。
現在も、上記のことが言える。

暇な坊主の、暇な、宗論研究は、実に、いい気なモノである。
時代は、切迫している。

仏教の専門書は、何を言うのか、よく解らないもの、多い。
さらに、教学なるもの、支離滅裂であることに、気付かない。
単なる、妄想である。

私は言う。

仏教の、悟りや、救いという、観念が、何故、必要なのであるかと。
何故、人間は、悟りが、必要なのか。
何故、人間は、救われなければならないのか。

そして、本当に、悟りとか、救いというものが、あるのか。

更に、万が一、悟って、救われても、私は言う。
人間は、孤独な存在である。
いや、絶対孤独が、人間の存在理由である。

宗教は、その、真理を、誤魔化し、更には、死後の世界までも、誤魔化しで、満たす。

これ程、罪深いものが、あろうか。

死ぬまでの、暇つぶしとは言え、何程の、価値があるというのか。


ただし、仏教の開祖、仏陀を、はじめ、それぞれの宗派の開祖たちの、活動に関しては、私は、敬意を、表するものである。
また、日本仏教の開祖たちにも、敬意を、表する。
それは、時代性と、時代精神が、求めたものだからだ。

また、文学としての価値は、思う存分にあると言う。

浄土教を、先に取り上げるのは、実に、日本人に、浄土宗系の信徒が多いということ。
そして、日本仏教の巨峰といえば、空海と、法然であると、思うからだ。

空海は、いずれ書く。
法然は、仏教に縁の無かった人々に、仏教というものを、提供した功績である。
更に、貴賎別なく、教えを説いたという、行為は、注目に値する。
法然によって、仏教が、一般化したと、言ってよい。

法然は、浄土宗を開いた。
そこからである。

南無阿弥陀仏を、唱えるだけで、救われると、説いたのだ。
救われる。
一体、何からの救いなのか。

これを、見つめつつ、進める。

さて、
柳の文を、続ける。

第二の仏教に関する書物の難点は、漢語による熟字や熟語が、余りにも多いことである。使用された経文のほとんどが一切が漢訳であるから、漢語の表現を用いずして仏教を語ることは容易ではない。のみならず、長い歴史の間には数多くの特殊な術語が培養された。それ故教学に詳しくなると、術語を豊富に知るから、それを誇示するような弊さえ見える。無学な者はそれに近づくことが出来ぬ。今の学生たちは漢字の素養が乏しく、近頃は進んで漢字の使用に制限を施すほどであるから、ますます仏書を読みづらいものにさせる。

ところが、ハウツー物の、仏教入門書などにより、読みやすくなったが、内容も、薄くなる。
薄くなるというのは、解った気にさせる、ということである。
般若心経などの、入門書なのか、エッセイなのか、論文なのか、知らないが、膨大な著書があるが、いい気なものである。
般若波密多 パンニャパラミーターという、知恵という言葉を、語っているのだろうが、知恵など知らない者が、知恵を語るという、仰天である。

語れないものは、語らない方が、いいのである。

仏教を平易に説くということは、それを民衆に近づけるためである。もとより平易は卑俗の意味であってはならない。いつだとて易しさは深さに支えられていなければならない。
柳宗悦

心の、より処を、求めて、般若心経などの、経文に、興味を示すのだろうが、あれを、マジに、読むということは、マジに、おかしくなるということである。

三蔵法師玄奘訳の、般若経の、心臓部であるが、あの、空観というものは、虚無の世界に引きずり込む。
つまり、深さを感じさせて、迷うのである。
その、迷いを、安心立命と、勘違いするのである。

仏教の、教学というものは、実は、それに、尽きる。
迷わせて、それを、安心と、思い込ませるのである。

仏法とは、別名、迷いである。

膨大な仏典というものがあるのは、迷いに迷うからである。
いくら、書き綴っても、終わらないことを、真理を語るのに、終わりが無いというのは、誤魔化しである。

真理とは、単純明快なものである。

太陽は、東から上り、西に、沈むのである。

日蓮は、たとい、日が西から出ても、法華経の揺らぐことは無いなどと、アホなことを言うが、太陽が西から出たら、どうなるのか。

強い信念は、強迫を生み、更に、誇大妄想に突進する。
宗教とは、実に、それである。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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