2008年06月13日

もののあわれ213

塩津山といふ道のいとしげきを、賤の男のあやしきさまどもして、「なほからき道なりや」といふを聞きて

知りぬらむ ゆききにならず 塩津山 よにふる道は からきものぞと

塩津は、琵琶湖の北。北陸へ向かう要港である。
その道に、草木が生い茂っている。そこを、身分の低い男たちが、誰も、みすぼらしい格好をして、「ここは、難儀な道だ」というのを、聞いて

男たちは、荷物を運ぶ者たちである。

それらに、歌を通して言う。

あなたがたも、分かったでしょう。いつも行き来していても、塩津山は、世渡りの道として、辛いものだということを。

からきものぞ
辛いものだ。これは、からいと、塩のからい、とを、掛けている。
駄洒落の歌という者もいる。

兎に角、世の中に生きることは、いすれにしても、からい、辛いものだという。

みづうみに、おいつ島という洲崎に向かひて、わらはべの浦といふ入海のをかしきを、口ずさみ

おいつ島 島守る神や いさむらむ 波も騒がぬ わらはべの浦

現在の、近江八幡市の付近にある、奥津島神社の辺りを洲崎という。入海とは、入江のこと。その風景が、美しいのだ。それを、口にして

おいつ島を、守っている神様が、静かにと、言うのだろうか、わらはべの浦は、波も立たずに、静かにして、美しい。

いさむらむ
いさめる、のである。注意する。命令する。

この歌は、帰路の歌である。
少し、ワクワクしているのであろう。

暦に、初雪降ると書きつけたる日、目に近き日野岳といふ山の雪、いと深く見やらるれば

ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に 今日やまがへる

暦に、初雪が降るとある。この暦は、当時の男たちが、用いたもので、陰陽道からの、吉凶などが、書かれてあるものだ。
日野岳とは、越前の国府にあった武生市の東南にある山。
その山の、雪が、とても、深く見られた時。

こちらでは、日野岳に、群れ立つ杉を、埋め尽くす雪が降るが、都でも、今日は、小塩山の松に、雪が、降っているのだろうか。

都は、どうなっているのだうか、という、懐かしみの情である。

兎に角、情報を得るには、時間がかかる、時代である。
一年を過ぎて、都の情報を、得るのも、不思議ではない。

人間感覚が、現代とは、全く違う。
それが、また、ひらがな、という文字によって、表現されると、大和言葉、そのものになる。
大和言葉の、優雅さは、時間感覚とも、関連するようである。

焦りが無い。
ひらがなで、表現すると、漢字で、表現するのとでは、現代でも、語感が、変わる。それは、目でみた、感触も、変わるということ。

天の川を、テンノカワと、読むか、あまのかわ、と読むかで、語感が、違う。

暫く、大和言葉について、語ることがなかったが、和歌は、すべて、大和言葉が、基本である。
どんなに、漢語に強い人も、和歌を詠む時は、大和言葉になった。
それは、ひらがなによる。
万葉集は、漢字の音の、当て字により、記録されたが、音はあったのである。
実は、文字もあった。
しかし、記録されない。
神代文字である。何故、神代文字が、使用されなかったのか。
厩戸皇子、聖徳太子といわれる者の、策略である。そして、蘇我馬子から、蝦夷、入鹿の、三代による。

神代、かみよ文字に関して、書くことは、また、膨大なことになるので、今は、省略する。

聖徳太子は、すべて、漢字と、仏教思想により、国造りを行おうとした。
何故か。
自ら、仏教を講義し、また、書も書いた。
大乗仏教の、日本流布は、聖徳太子から、はじまる。

実は、古事記以前に、日本史を編纂していた。それを、蘇我家が、保存していた。しかし、入鹿が、討たれた時、蝦夷が、屋敷に火を放ち、燃やしてしまう。

聖徳太子と、蘇我氏は、グルであったが、太子の息子一族は、入鹿によって、皆殺しにあう。一族が、自害したのであるが、結果は、入鹿の討伐による。

ある時から、太子と、馬子の間に、国造りに対する、考え方が乖離してゆくのである。
太子は、大王家を、馬子は、蘇我の王国を、である。馬子の、願望を実行するのは、孫の入鹿である。
大王家とは、天皇家である。

聖徳太子の、行動は、不明な点が多すぎるのである。最初は、蘇我家側の人間だった。
しかし、途中から、変質する。何故か、不明である。
大乗の精神を、もって、国造りを開始しようとするという、解釈もある。つまり、仏教国である。それは、馬子も、望んだこと。宗教を、押さえれば、人心を、把握できる。
宗教というもの、そういうものである。
支配しやすくするための、方法が、宗教である。

私見である。
太子は、自分の出生に、苦悩していた。
罪の意識である。存在そのものが、罪であるという意識。救いを、仏の教えに求めた。その精神性と、馬子、蘇我家の野心との乖離である。

同じく仏教を立てて、であるが、それぞれの、意味合いが、乖離してゆく。
太子は、内に、馬子は、外に。
しかし、いずれにせよ、誤りであった。

何故なら、日本は、かんながら、唯神の、国である。
ここで、神という文字を使うと、一神教の神の、概念に、受け取られるが、違う。
仏という、超越者を置かない。皇祖皇宗に続く、祖先の霊位を、カミと、する国である。
太子は、その間を、埋めることが出来ずにいた。
また、それは、宗教ではなく、伝統である。
日本は、宗教を置く国ではない。伝統の国である。
これを、見誤ると、すべてが、狂う。

その迷いの、象徴するものは、推古天皇の、伊勢神宮行幸である。
はじめて、天照大神のおわします、伊勢神宮に詣でる。
大和朝廷は、九州の王朝である。富士王朝から、引き継ぐのである。
本来は、宇佐八幡へ行幸するが、伊勢への、行幸は、何かに動かされたとしか思われない。

今は無き、富士王朝の回帰である。
それはつまり、天皇家の回復である。正統であろうとする、働き。

天武、天智によって、国造りが成されたが、仏教は、捨てず、混合とした。
苦肉の策である。
何故なら、天皇とは、祭祀する者である。
祭祀する者が、仏教を受け入れるという、複雑な心境である。
以後、天皇が、仏教に帰依するということが、当たり前に成る。

色々な、考え方があるが、今は、この辺で、止めておく。

万葉集の、はじまりである、舒明天皇が、すべてを知っていた。しかし、舒明天皇は、何も語らず。
その息子たち、天武天皇、天智天皇によって、日本が造られてゆくことになる。
舒明天皇の意思が、二人の息子によって、具現化された。

さて、
舒明天皇こそ、蘇我家の傀儡天皇となるべくの、天皇だった。
その、苦悩は、余りある。

もし、大王家が、破壊され、蘇我王国になっていたら、今の日本の形は、無い。
すんでのところで、祖先の霊が動いたとしか、思えないような、歴史の展開である。

万葉集、第一の名歌は、舒明天皇の歌である。
この天皇の、祈りがあったればこそ、今の日本がある。

寄り道しました。
もし、私に、許されるのなら、神代文字について、いつか、書きます。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれに第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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