2008年06月12日

神仏は妄想である 91

スターリンとヒトラーは極端な悪行をそれぞれ、独善的かつ教条的なマルクス主義と、ワーグナーふうの狂乱の色合いをもつ、正気の沙汰ではない、非科学的な優生理論の名のもとにおこなったのである。宗教戦争は実際に宗教の名のもとで戦われ、それは歴史上おそろしいほど頻繁に見られる。一方、無神論の名のもとで戦われたいかなる戦争も、私は思い浮かべることができない。なぜそうなのか? 戦争が経済的な強欲、政治的な野心、民族的ないし人種的な偏見、深い不満や復讐心、あるいは国家が向かうべき方向に関する愛国的な信念によって推進される、ということは確かにあるだろう。しかし、戦争をおこなう動機としてより妥当な候補といえるのは、自分たちの宗教が唯一本物であるという不動の信念なのである。そしてこの信念を補強するものこそ、すべての異教徒やライヴァル宗教の信奉者に対して公然と死罪を宣告し、神の戦士はまっすぐに殉教者の天国に行けると露骨に約束する、聖典にほかならない。
ドーキンス

ヒトラーが、その残虐行為を単独で実行したわけではないことを、私たちは、ここで、思い出さなければならないと、ドーキンスは言う。
つまり、兵士や、その上官は、キリスト教徒だったというものである。

実際、ドイツ国民のあいだに根付いたキリスト教信仰こそ、私たちがまさに論じている仮説―――すなわち、ヒトラーがおこなった宗教にかかわる発言が偽りのものであったのではないかと疑われることーーーを支える土台の一部にちがいあるまい。つまり、ひょっとしたらヒトラーは、キリスト教に対してなんらかの共感を、形だけでも示さなければならないと思ったのかもしれない。
ドーキンス

ここで、問題なことは、時のローマ法王ピウス12世が、ナチスに反対する態度を取ることを、執拗に拒んだということである。
そのことは、現代のカトリック教会にとって、実に深い困惑になっている。

ヒトラー体制は、無神論に源を持つ者ではないと、ドーキンスは、言う。
スターリンは、完全に無神論者である。
しかし、個々の無神論者は、悪事を起こすかもしれないが、無神論の名において、悪事を成すことはない。
スターリンが、その典型である。

更に、私見であるが、スターリンの主義は、宗教から生まれた子供である。
マルクス主義は、プロテスタントの、ガンビンの思想から生まれたものであると、私は、考えている。

サム・ハリスはこの一件に関しても、「信仰の終焉」において的の中心を射抜いている。

宗教的信念が危険なのは、その他の点では正常な人間を狂った果実に飛びつかせ、その果実が聖なるものだと思い込ませるところにある。次々に生まれてくる新たな世代の子供たちは、宗教上の信条というものは他の事柄であれば必須とされる正当化の手続きを踏むことをかならずしも求められないと教えられるため、文明の依然として、不合理の徒から成る軍勢に包囲されたままである。私たちはいまこの瞬間も、大昔の文献をめぐって自分で自分の身を滅ぼしつつある。このような、悲劇的なまでに愚かしいことが起こりうると、いったい誰に想像ができたことだろう?

逆の言い方をするなら、信仰のない世界をつくるために戦争に行く者がどこにいるのか、ということだ。
ドーキンス

随分と、ドーキンスの、神は妄想である、から、多くを引用してきた。

ここで、ドーキンスの著作と、お別れする。

宗教の、蒙昧は、限りない。
同じ、キリスト教でも、カトリックとプロテスタントの、宗教戦争を、見よ。
また、新興キリスト教と、各宗派の争いを見よ。

そして、同じ旧約聖書を、聖典とする、ユダヤ、キリスト、イスラム教の、争いを、見よ。
アメリカの、ブッシュは、中世の十字軍という、イメージを、持って、イスラムに立ち向かった。
呆れる。

更に、世界各地で、行われる、紛争、戦争の種は、その多くを、宗教に負う。
インドならびに、アジアでは、平和志向の仏教徒まで、戦うのである。
更に、ヒンドゥーも、然り。

インドネシアは、政府が、打ち上げた、一神教のみ、宗教としての活動を、許したが、それが、根本的、紛争の種になった。
一神教を、認めるということは、唯一本物であると、信じる様々な、宗教紛争の種を、植えたということである。

日本の場合は、宗教戦争というより、為政者と、宗教団体の争いがあった。
特に、門徒の一揆に、端を発した、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康たちの、戦いである。

それ以前は、比叡山の僧兵に、象徴される。
比叡山で、僧兵である。信じられないのである。
延暦寺とは、天台宗である。最澄の天台宗である。
法然の念仏を、迫害し、虐殺等を、行ったとは、信じられないのである。

そして、念仏と、題目宗との、争い。

戦国時代を、戦いの歴史と、見るが、その底では、日本でも、宗教に絡む争いが多くあった。

神道が、仏教を受容したように、仏教の派閥が、そのようなことが無いというのが、私は、不思議である。

最も、今現在は、宗派が、集って、傷の舐め合いから、談合をしている、状態である。
すぐに、先が見える、日本仏教の、愚か者どもが、既得権益を、守るべく、仏教の現代化などと、言うが、なんのことはない。
食って寝る場所の確保であり、教義の云々でもなんでもない。
ただ、安穏とした暮らしを、続けるために、談合するのである。

彼らが、この世に、地獄を、作っていることを、知らない。

何度も言うが、仏陀の、教えなど、日本の仏教には、毛ほども無い。

次に、それらを、ランダムに、そう、無造作に、取り上げて、徹底的に、叩き切る。

最澄、空海、法然、親鸞、日蓮、道元等々、何ほどのことは無い。
妄想、想像の、蒙昧の世界である。

日本仏教の、名僧、高僧等々、言葉遊びの、何物でも無いと、断ずる。
文学というなら、話は、解るが、宗教、更に、信仰させるという、傲慢極まりない、その姿勢を、私は、断罪する。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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