2008年06月11日

もののあわれ211

姉なりし人亡くなり、また人のおとと失ひたるが、かたみにあひて、亡きが代りに思ひ思はむといひけり。文の上に姉君と書き、中の君と書きかよひけるが、おのがしし導き所へ行き別るるに、よそながら別れ惜しみて

北へ行く 雁のつばさに ことづてよ 雲のうはがき かきたえずして

姉を亡くした人、また、妹を亡くした人、互いに、代わりにと、思い、手紙には、姉君と書き、相手は、中の君と、書く関係になったが、それそれが、別々の土地に行くことになり、別れることになった。それを、惜しんで、作る歌。
紫式部は、姉を失い、相手の方は、妹を、失ったのである。

北へ行く、雁の翼に、言伝てて下さい。今まで通りに、手紙の、上書きを絶やさないで下さい、と。

春に、北へ飛ぶ、雁に乗せて、手紙を下さいという。
雲の、うはがき かき、たえずして
雲の上を行く、雁のように、やめないで下さいというのだ。

返しは西の海の人なり

行きめぐり たれも都に かへる山 いつはたと聞く ほどのはるけき

返す人は、西の海に行く人

お互いに、離れ離れになり、それぞれの国々を、回りますが、いずれは、都に戻ります。
でも、あなたの、行かれる所は、山々が多く、遠く離れるということが、身に沁みます。
いつ、お逢いできるのかと、心細く思います。

いつ、はたと聞く ほどの はるけき
いつまた、あなたに、会えるのか、あまりにも、遠い所で・・・
いつ、はたと聞くほどの、はるけき
である。

姉を失い、親しくなった、友人とも、別れるという。
侘しく、寂しい気持ちに、溢れたであろう。

逢うは、別れの、はじめなり。さよならだけが、人生さ。
そのように、思われる、人生というものを、早くから、知ることになる。

生別死別と、人生は、何と、別れの多いものか。
さらに、日々、出会いと、別れが、繰り返される。

昨日まで、親しかった友人と、少しの誤解や、勘違いで、別れることもある。
少しの、拘りで、どれほど、多くの人に、別れることか。

それで、知ることは、人は、私は、本来、孤独な者であるということだ。
決して、一緒になることの出来ない存在が、人である。
それぞれが、そうして、絶対孤独というものを、持って生きている。

私も、孤独、相手も、孤独な存在であると、気付けば、また、新たなる、関係が、築かれるはずであるが、そう、やすやすとは、いかない。

こちらを、理解して、欲しいと、思えば、あちらも、そう思っているはずである。
しかし、理解したと、思ったことが、実は、更に誤解であるということも、ある。
こうして、人間関係というものは、実に、不安で、不安定なものである。

そこに、現れてくるのが、共通に、拝むもの、宗教である。
信仰により、多くの、ズレを、誤魔化すことが、出来る。
神や仏を、想定して、ゆるやかな、生ぬるい人間関係を、作ることが、出来る。
しかし、それが、堕落だとは、思わない。
孤独感の、堕落である。

もののあわれ、というものには、拝む対象は、無い。
ただ、もののあわれ、というものが、あるというだけである。
つまり、絶対孤独の中に、身を置くことのみが、もののあわれ、というものを、更に、深めるのである。

そして、その、心象風景は、千差万別であり、百人百様である。
何と、限定することのものは、無い。

それが、日本の伝統であり、精神の、在り処である。

津の国といふ所よりおこせたりける

難波潟 むれたる鳥の もろともに 立ち居るものと 思はましかば

津の国というところから、文を寄こしたのだ。
津の国とは、現在の、大阪府である。

難波の干潟に、群れている水鳥のように、あなたと、寝起きが出来たらいいのに。

あなたと、一緒にいたいという。
もろともに、立ち居るものと
すべてを、あなたと共に、過ごしたい。

筑紫に肥前といふ所より文おこせんたるを、いと遥かなる所にて見けり。その返り事に

あひみむと 思ふ心は 松浦なる 鏡の神や 空に見るらむ

筑紫の肥前という所へ、文を送る。随分遠い所です。その、返りに

あなたに、逢いたいと、思うこの心は、そちらの、松浦に、まします、鏡の神様が、空から、見ているでしょう。

鏡神社は、現在の佐賀県唐津市鏡である。
鏡神社に鎮座する神をいう。


返し、またの年もてきたり

行きめぐり あふを松浦の 鏡には 誰をかけつつ 祈るとかしる

返しが、翌年にきた。

遠い国を巡り、都で、再び会える日を、待ち望み、鏡の神に、誰のことを、心にかけて、お祈りしているのか、おわかりですか。

あふを松
逢うを待つに、かけているのである。

祈る、という言葉が、すでに使われている。
拝むという、姿勢と、違う。

拝むは、対象とする、神様にであり、祈るは、誰かを、想定して、願うのである。

祈りは、いのり、であり、い、のる、と、分ける。
い、宣る、のである。
意、宣る、となる。

宣ることは、のりごと、となり、宣の言となり、祝詞となる。

最後に、祝いの言となるというのが、面白い。
いわい、意を、意、なのである。

これは、言霊の真髄である。

ただ、意を尽くす言で、意が、行われるという、言霊思想である。
つまり、言は、事を成すのであり、言葉にすることは、成ることなのであるという。

言挙げすることは、とても、大変なことだった。
言葉にすることは、実現になるからだ。

それを、言霊信仰というが、違う。
伝統である。

信仰と、伝統を、明確にしないと、多くの誤解を、生ずる。

祝詞を上げるというと、宗教のことになる。
祝詞は、伝統である。
宗教は、信仰が元の、崇拝であり、依託である。それは、崇拝するものが、主体で、崇拝する者が、従である。

祝詞は、こちらが、主体である。
だから、神も祈られて、神に成るという、考え方がある。
日本人の神は、唯一絶対の存在ではない。
私の延長にある、先祖の延長にあるものである。
断絶していない。

天照大神というのは、先祖の総称であり、また、尊称であるという、思想は、日本のみである。

それは、伝統であり、宗教ではない。

神道は、ただ今宗教と、認識されていいるが、宗教の概念には、入らない。しかし、時代性であるから、宗教法人という、国の認定する、形になる。
しかし、古神道になると、伝統であり、宗教とは、全く関係無い。

伝統と、言うほかは無い。

それぞれの、民族には、それぞれの伝統がある。
それを、西洋の宗教の概念に、貶めて、土着の宗教、土着の信仰と、断定する。
それは、民族の伝統であり、宗教として、断定すると、誤る。

伝統を、宗教と、判断し、我こそ正しい宗教であると、その民族の伝統を、破壊して、争いを起こしてきた。
微妙繊細なることを、理解出来ない、欧米や、アラブの民族は、実に、野蛮であることが、解る。

甚だしいのは、精霊信仰、アニミュズムと型に嵌めて、理解しようとする。
心的所作であり、信仰ではない。
限りなく、信仰に近いが、それは、心的所作なのである。

この、微妙繊細さを理解することである。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれに第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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