2008年06月11日

神仏は妄想である 90

アメリカでは、人種的平等という理由は、有能なマーティン・ルーサー・キングのような政治的指導者、およびポール・ロブソン、ジドニー・ポワチエ、ジェシー・オーウェンズ、ジャッキー・ロビンソンのように、芸能人やスポーツ選手、その他の有名人や役割モデルとなるような人物によって育まれたのである。奴隷と女性の解放はカリスマ的な指導者に多くを負っている。そうした指導者のうちには信仰をもった人間もいたし、そうではない人間もいた。ある者は、自らが信仰をもつがゆえに正しい行いをした。別の場合には、彼らが宗教を信じていたのは付随的なことだった。マーティン・ルーサー・キングはキリスト教徒であったが、彼の非暴力的な市民的不服従の哲学はガンジーから直接受け継いだものであり、ガンジーは宗教を奉ずる人間ではなかった。
ドーキンス

宗教を持ち出すような人は、いなかったのである。
実に、素晴らしい。
人間としての、行為である。そこには、宗教の教義等々、なんらの欠片も無い。
人間性というものの、尊さである。

それを、神や仏というものを、持ち出すと、汚れる。

何が、素晴らしいかと言って、人間性というものほど、素晴らしいものはない。

霊性というものを、持つから、人間が素晴らしいのではなく、人間性というものを、持つから素晴らしいものなのである。
霊性とは、付随的なものである。

霊主体従といって、のうのうとしている、宗教ではなく、霊も体も、同じく主なのである。
何故、肉体を持つのか。
肉体が素晴らしいからである。
そして、肉体の持つ欲望により、生きられるのである。

さて、創価学会は、ガンジー・キング・池田展というものを、世界的に開催している。
この、恥ずかしき行為は、目に余る。
ガンジー・キング・池田と、並べる傲慢は、甚だしい。
会員にとっては、鼻高々であろうが、他の日本人には、穴があったら、入りたくなるほど、恥ずかしいことである。

世界的指導者として、池田という人物を、掲げるが、単に、信者会員の、金を、思う存分に使えるというだけの、話である。

生きているうちに、どうしても、名誉というものが、欲しいのである。宗教家というより、野心家であり、更に、アホである。

あまりの、軽薄短小さに、愕然とする。

裏千家という、千利休を流れを汲む、茶道の家元が、青年の船というもの、毎年開催し、中国青年との、交流等々を、行っている。
勿論、会員からの、金集めである。
世に喧伝して、裏千家という、華麗なるペテンの、家元制を、喧伝するために、行う。
それと、何の変わりもない。

内容が、空洞である。

その、中国の反日感情を、彼らは、何がしか、緩和させたか。
そのような事実は、一切無い。
すべて、金で、中国側の、称賛の声を集めて、紹介する。
金で、称賛を買うのである。

話にならない。

さて、ドーキンスを、続ける。

それから、教育の改善というものも推進力の一環であり、とくに、私たちのそれぞれが他の人種や異性の人間性を分かちもっているーーーどちらも生物化学、とくに進化論に由来するもので、まったく聖書とは縁が無いーーーという知識の増大がある。黒人や女性が、そしてナチスドイツの時代にはユダヤ人やジプシー「差別用語なので、現在はロマと呼ばれている」が酷い扱いを受けたのは、一つには彼らが完全な人間とは認められてなかったからだ。倫理学者のピーター・シンガーは、「動物の解放」という著書において、私たちはいま、「ポスト種差別主義」の段階へと移行すべき時期を迎えているのだという見解を、きわめて雄弁に主張している。ポスト種差別主義というのは、人間が人間らしく扱われるような、しかるべき扱いを、自分がそう扱われたことを評価できる知性をもつすべての種にまで適用すべきだ、という考え方である。ひよっとしたら、これは道徳上の時代精神が、本来の世紀において向かうべき方向を示唆しているのかもしれない。それは、奴隷制の廃止や女性の解放といったかつての改革からの自然な延長ということになる。

聖書の中からは、決して、起こりえない、考え方であると、私は思う。
ポスト種差別主義とは、画期的である。

神は死んだ。そして、人間が生まれたのである。

時代性、時代精神が、それを、示すのである。

神の知性よりも、人間の知性が、勝るということを、知るものである。
勿論、神と呼ばれるモノは、人間の変形したものである。が。


道徳に関する時代精神が、大まかに一致した方向を目指して動いていく理由についてこれ以上深く追求するのは、私のアマチュア哲学や社会学の範囲を超えている。私の目的にとっては、観察された事実として実際にそういう動きがあり、またそれが宗教によってーーー聖書によってではないことはまちがいがないーーー推進されていないということがわかるだけで十分である。それはおそらく重力のような単一の力ではなく、コンピューターの能力が指数関数に増大することを表現したムーブの法則のように、さまざまな力の複雑な相互作用なのであろう。その原因が何であれ、時代精神の前進という明らかな現象の存在がわかっただけで、私たちが善人であるために、あるいは何が善であるかを判断するために神が必要だという主張を突き崩すのには十分である。
ドーキンス

私は付け加えて、仏典でによってでもないことは、間違いなと、言う。
さらに、コーランによってでも、ないことは、間違いないと、言う。

神や仏の名において、道徳を、説くという、傲慢不遜な態度は、更に、改めた方がよい。
それは、人間の知性によって、説かれ、感性によって、感得させられ、そして、理性によって、行為されるものである。

あと、一回で、ドーキンス氏と、お別れすることにする。





posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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