2008年06月10日

神仏は妄想である 89

私の目的にとっては、それが宗教からはやってこないのは確かだとわかればそれで十分である。もしどうしても一つの理論として展開せよといわれれば、私は次のような線に沿ってアプローチするだろう。私たちは、道徳に関する変わりゆく時代精神が、非常に数多くの人々のあいだでそれほどひろく同調が見られる理由を説明する必要があり、またその比較的首尾一貫した方向性についても説明する必要がある。
ドーキンス

ツガイトガイスト、時代精神という意味である。
道徳が、宗教からではなく、時代精神から、発しているのであると、言う。
同感である。

道徳教育とは、その時代精神を、見つめる行為であるということが出来る。
具体的に言えば、社会で起こる様々な、問題を、考えることによって、自然と、時代精神というものを、身につけてゆく。
批判や、同調から、様々な感情を、抜き出し、それを、次に知性により、判断し、理性により、行為する。
勿論、そこには、柔軟な感性を要する。
更に、感性が、実に、素晴らしい感受性を生み出し、それを、芸術行為にまで、高める者も、出るだろう。

これは、理想であろうか。
理想ではなく、現実である。

宗教による、講話のような形から、何がしか、人の道なるものを、探るという、行為は、時代精神から、すでに、掛け離れたものになっている。
しかし、まだ、出版物などを、見ていると、宗教家が、あたかも、人の道を、説くかの如くのイメージを持つ。

私個人として、言えば、宗教家より、精神科、精神医療に関わる人の、エッセイや、論文、などを、読むことで、人の道というものを、考えた経緯がある。
人間の心に関する、深い洞察力は、精神科医の、特に、人間性溢れる方々によって、多く理解した。


第一に、なぜそれほど多くの人々のあいだで同調が見られるのか? 道徳に関する時代精神というものは、バーやディナーパーティーにおける会話を通して、本や書評を通じて、新聞や放送を通じて、そして現代ではインターネットを通じて、人の心から心へひろまっていく。道徳的風潮の変化は、論説で、ラジオのトークショーで、政治演説で、コメディアンのしゃべりで、メロドラマの台本で、議会に提出された法案の投票で、そしてそれを解釈する判事の判決に示されている。それを表す一つの方法は、ミーム・プール内におけるミーム頻度の変化という観点からのものになるだろうが、私はそれに深入りするつもりはない。
ドーキンス

神というものに、また、聖典とされる、聖書により、道徳観念というものが、生まれるのではないという。
ここで、私は、時代の進化という言葉を、用いる。
時代は、進化しているのである。

例えば、仏陀在世当時は、ブッダの言葉が、時代精神として、生かされた。
生き物を、殺すななどである。殺生禁止である。
それは、また、普遍的な、道徳感情になったが、それを行為するのは、時代精神である。

如何に、殺生禁止であろうが、人間は、戦い続けてきた。
日本に、仏教が伝来した時でさえ、それを、取り入れるか否かで、争いが起こり、さらに、仏教の教えが、伝統化されてきた時代でも、争いは、絶えなかった。
仏に祈りつつ、人を殺した。
今、現在も、そうである。

そういう、普遍的な、道徳の指針に対しては、あれかし、という、希望であるが、生活の中にある、様々な問題解決は、時代精神が、受け持つ。

輸血拒否するという、エホバの証人、ものみの塔という、キリスト教新興宗教があるが、最も、愚かしいことに、気付くこともない。
聖書に、輸血を禁止しているからだとの、説明と、解釈は、時代精神に、逆行している。
結果、医療の現場では、成人以外の、子供の場合は、人道的に、輸血をする。
当然である。

頑なさを、戒める聖書の教えもあるが、彼らは、それに、気付くこともない。
輸血しないという、喧伝により、逆に、彼らの宗教を、宣伝するかの如くである。
カトリックや、プロテスタントに、大きな批判の声を上げるが、根は、同じものであることに、気付かないのは、蒙昧だからである。

要するに、話にならないのである。

私たちのなかには、道徳に関する変わりゆく時代精神の進歩の波に遅れている人もいれば、わずかに先を行く人もいる。しかし、二十一世紀に生きている私たちの大部分はは一団をなしており、中世、あるいはアブラハムの時代、あるいは1920年代という最近の人間と比べてさえもずっと先を行っている。波そのものは絶えず先へと動いており、前世紀の先駆者でさえ(T,Hハクスリーはその顕著に例)、一世紀後の遅れた人々よりも自分が後方にいることに気付くだろう。もちろんこの進歩はなめらかな上昇をたどるわけではなく、鋸の歯のように蛇行しながら進むのである。
ドーキンス

試行錯誤をしつつ、人類は、道徳というものを、考え続け、訂正し、修正し、時代精神に合わせ、築いてきた。
そして、それは、終わることなく、続けられる。

昔の人とは、ここでは、老人のことを言う。
自分たちの時代と、違い、道徳観が、失われた、礼儀が失われた云々と言う。それは、いつの時代も、そうであった。
若者は先を行き、老人は、自分たちの、若者の頃を、言う。
しかし、大きな断絶にはならない。
その、相違から、若者と、老人は、語り合うことも出来た。

最も、愚かなことは、宗教の教えにあることからの、道徳教育である。いや、道徳的教育、つまり、洗脳である。
今でも、キリスト教会は、性行為は、正上位で、行えと、教えるのであろうか。
今でも、マスターベーションは、罪であると、教えるのか。
異性を、同性も、含めて、性欲を覚えるのは、罪であると、教えるのか。

新約聖書の中の、イエスも、思いだけでも、姦淫を犯すという。
余程、好き者が、そのセクトにいて、自分の性欲に、恐れおののき、イエスに言わせたのであろう。自らの、戒めとして。

ドイツから、始まった、ダッチワイフの、性能は、実に、素晴らしいものである。
今では、マスターベーショングッズの、性能の素晴らしさに、私は、感嘆している。

相談者の中に、相手の男性が、自分をイカせた後に、グッズで、イクのですが、という相談を受けたことがある。
グッズは、それほど、性能が良くなっている。

一人暮らしの人の、生前の部屋を整理処理する、業者に聞くと、驚くほどの、大人のオモチャがあるという。
実に、大人のオモチャの、世界は、飛躍的に、発展した。

激しい、欲望を、オモチャで解消できるというなら、言うことは無い。

何故、宗教は、性欲を怖れたのか。
いずれ、書くことにする。

私の言いたいことは、個人の、非常に個人的な、情緒に、入り込む宗教というものの、傲慢を言うのである。
尻を拭くことから、指導したいとする、宗教とは、何か。
ほどほどに、いたせ、と言う。

人を一律にして、家畜のように、扱う宗教団体というもの、世の害毒である。

時代精神については、もう少し、続ける。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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