2008年06月08日

神仏は妄想である 87

すぐれた歴史家は過去の発言を自分たちの基準で判定しないというのは決まり文句である。エブラハム・リンカーンは、ハクスリーと同じように時代の先を行っていたが、それでも、彼の人権問題に関する見方は私たちより後退した、人種差別主義者のもののように思われる。 ドーキンス

したがって、言わせてもらえば私は、白人と黒人の社会的・政治的平等をどんな形にせよ実現することに賛成ではないし、これまで賛成したこともない。黒人を有権者や陪審員にすることにも、公務員になる資格を与えることにも、白人との人種間結婚にも私は賛成しないし、賛成したこともない。そしてまた、さらに加えて言わせてもらうならば、白人と黒人のあいだには身体上の相違があり、そのゆえに、両人種が社会的・政治的平等の名のもとに一緒に生活する日などは永久に来るまいと私は信じている。そして、両者が平等な生活を送ることなどできないにもかかわらず一緒にとどまるのであれば、優劣の立場は存在せざるをえず、私はほかの誰にもまして、白人が授けられた優位な立場をもつことに賛成するものである。
リンカーン

奴隷解放をした、リンカーンであるが、驚くべき、差別を持っている。が、それが、時代精神である。

ゆえに、ドーキンスは

ハクスリーとリンカーンが現代に生まれて教育を受けたとすれば、自分たちのヴィクトリア朝的で慇懃無礼な物言いに、ほかの誰よりも真っ先に身の縮む思いをするのは彼ら自身だっただろう。私がこれらの文章を引用したのはひとえに、時代精神がいかに移ろいいくものかを示したかったからにほかならない。
と、言う。

ワシントン、ジェファーソンその他の啓蒙主義的な人々が奴隷制を支持していたことは、もちろんよく知られてる。時代精神は移ろい、それはあまりにも容赦ないものであるため、私たちはときにそれを自明のこととみなし、その変化自体が現実の現象であることを忘れてしまう。
ドーキンス

時代精神という物の見方により、実に、明晰に見えるものがある。
そして、この時代精神というものを、持つことで、歴史を、より理解できるのである。

その、時代精神であったから、と、納得する事柄が、多い。
しかし、宗教における、時代精神というものを、考えれば、それには、全く、関知しない。

時代精神も何も、棚上げするか、無視して、今でも、700年前の、鎌倉仏教などを、奉じているという、形相である。

歴史があるというのと、伝統があるというのとは、別物である。

芸術活動も、時代精神に支えられてあるから、市川猿之助などの、新歌舞伎が、今では、当然のように、受け入れられている。
当時は、飛ぶ猿と、揶揄された、市川猿之助は、歌舞伎の古色蒼然とした世界に、新しい息吹をもたらした。
更に、世襲制を廃して、才能ある、若者を起用するという、新しい歌舞伎役者の、養成も画期的だった。

このように、何一つを、とっても、時代精神というものを、理解しなければ、解らないものが多い。

当時、限られた者の、仏教というものを、一般市民にまで、疑いを持っても念仏すれば、救われると、説いた、法然は、時代精神の、典型である。
その活動は、画期的なものだった。
鎌倉仏教の、幕開けをしたのは、実に、法然である。

僧兵を抱える比叡山や、高野山、そして、南都六宗の、既成仏教に対して、仰天するような、専修念仏を唱えた法然は、実に、時代精神の、最もたるものだった。

誰もが、その説教を聞くことが、出来た。
遊女も来た。武士も来た。更に、既成仏教に、疑問を持つ者も、集った。

いよいよ、大衆に、仏教が布教される、幕が開いたのである。

しかし、それを、今現代に、通用するかといえば、無理である。
時代精神が、移ろうものであるということに、気付くべきである。
その、時代ゆえに、必要であったものが、今も、必要であるとは、ならない。

「もろもろの知者たちの、沙汰し申さるる観念の念にも非ず、また学問をして、念の心をさとりて申す念仏にもあらず」一枚起請文 法然

無知文盲の人々に、その人々が思いつめた、生死の心に、語り掛けたという、法然の布教は、実に、時代精神である。

結果、既成の仏教団体の、有り様を否定するというまでに、高まった。当然、迫害が起こる。

しかし、今、法然を見つめれば、弥陀の本願という、無明に、迷ったものであり、心を深めて、更に心を見つめるという意味では、為るほどの、価値はあるが、それは、それで、終わった。

私が、法然を評価出来る事は、開祖にあるべき、自筆の書き物を、残さなかったこと。
そして、当時の、常識であった、加持祈祷、呪術、巫女や、行者や、修験道などの、病気治療や、現世利益的祈願を、排斥したことである。
迷信、宗教的習慣に、重きを置かない、一筋に、心の問題を、取り扱ったことにある。

信仰が、純化されたという、批評家もいる。

さて、それでは、現代の、浄土宗は、いかがであるのか。
伝統というものに、堕落した。
伝統とは、この場合は、言わないが、歴史が長いということでの、伝統という。

伝統とは、万葉集に象徴されるように、国民の、宝であり、なお、それが、今も、息吹をもっているということである。
古いが、いつも、新しいものである。

伝統に、堕落するというのは、その、教義という、教えに、単に無批判にして、唯々諾々として、既得権益をのみ、守るということをいう。

徳川家の菩提寺などということは、良い。
ただ、それは法然の、思想であり、宗教ではない、それが、色褪せているということである。

このことについては、いずれ、書くことにする。
時代精神ということについて、更に、ドーキンスと、進めてゆく。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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