2008年06月06日

神仏は妄想である 85

神仏は妄想であるを、書き続けて、85回になった。

ドーキンスの、神は妄想であるという、著作の紹介が、長くなった原因であるが、これからも、延々と書き続けなければならないと、思っている。
まだまだ、足りないのである。

日本仏教の、誤りについて、書くことが、必要だと思っている。
すべての、仏教家を、検証する。
つまり、すべての、宗派を、叩き斬る。

仏陀の、もし、仏教というものがあればであるが、それを、根本仏教と、一応呼ぶことにする。その、根本仏教というものは、日本の仏教には無い。
すべて、中国思想に、侵された仏教もどきの、思想である。

さて、ただ今、ドーキンスの、対処する、聖書の宗教についての、検証をしている。
その、宗教の蒙昧である。

私は、カトリックの洗礼を受けている。
つまり、私も、キリスト教徒の一人である。

そこで、私の立場を明確にしておく。
ドーキンスは、カトリックを、最も、反吐の出る集団だと、言い切るが、それは、実によく理解している。

私は、今でも、イエスキリスト信仰を、持つ。
それは、私の作り上げた、イエスキリストのことである。
つまり、教会の信仰を、持つ者ではない。
その証拠に、私は、私の信仰を、布教、喧伝するという意志は無い。

私は、少年時代に、イエスキリスト、つまり、新約聖書によって、多くのことを、学んだ。日本人として、その、聖書の語句を、理解した。それは、実に、有意義であった。
日本人の感性を、持っての、イエスキリストの言葉であるから、欧米人のように、理解しなかったということが、幸いした。

つまり、私は、私が、創作した、イエスキリストの信者であるということだ。
それでは、プロテスタントの、聖書主義と、同じかといえば、そうではない。
プロテスタント主義の、聖書解釈も、していない。
それでは、内村鑑三のようにというのも、違う。
詳しい説明は、避けるが、勝手な解釈、勝手な理解が、私の聖書解釈である。
勿論、カトリック教理というものに、大きな影響を受けたが、結局、私が、辿りついたイエスキリストは、私のだけの、イエスキリストなのである。

その最大の特徴は、私のイエスキリストを、宣教しないということである。

私が、新しいキリスト教会を、創立しないということであり、それは、実に画期的なことだ。

多くの、日本の、新興キリスト教は、私のように、勝手な解釈勝手な想像、創作を、教理として、宗教団体を、起こして、信者を作るという、愚かなことをしている。

そこでは、必ず付き物なのは、病が、癒えた、運勢が良くなった等々の、現世利益のような、宣伝文句である。
信者になって、苦難苦悩ばかりが、続くとは、誰も言わない。
万が一、それを、言うと、必ず、神の摂理によって、その苦難も苦悩も、消滅したというオチになる。

信仰しても、何も変わらないというのが、真実の信仰である。

何かを、変えるのは、私自身である。

ところが、私自身を、変えることが、出来たのも、信仰の、おかげと言う、アホがいる。

信じるということを、知らない。
信じるというのは、疑い、思索するという意味である。

法然は、称号念仏を、唱え、親鸞は、更に、唱える前の、信じるという心の在り方を、追求したというが、とうだろうか。

弥陀の本願を信じるといっても、弥陀というものが、妄想、架空のものである。
何故、それを、信じると言えるのか。
観念を、信じて、それで、救われると、思う根性が、怪しい。
だから、怪しい霊界に、行くのである。

選択仏教といい、鎌倉仏教は、一つの教えだけを、多くの中から抜き出して、念仏や、題目、座禅と、絞ったが、時代性である。
しかし、今の時代には、通用しない。
通用させているのは、邪悪なものだからである。

邪ま、よこしま、なものほど、広がるという、この世は、地獄である。

念仏を持って、仏法などと、言えば、仏陀が、泡を吹く。

題目を持って、仏法などと、言えば、仏陀は、吐くであろう。

仏陀は、そんなことを、一言も言っていないからである。

日蓮などは、仏陀を、引き摺り下ろそうとする、ある、霊界というか、魔界のエネルギーを、受けて、あろうことか、仏陀を、更に越えた道が、法華経にあることを言うという、仰天である。

だから、東から、仏陀の、西へ、新しく仏法が、戻るというような、誇大妄想を抱くという。
手のつけようの無い、狂いを、持つのである。

道元などは、座禅こそ、仏陀の法統を継ぐものであり、我こそ正統な道であると、思い込んだ。
勿論、彼の著作は、日本文学の中でも、実に、見事なものであるが、それは、別にして、仏法の道としては、勘違いである。
座禅とは、仏陀以前の、バラモン、ヨガの修行法である。
確かに、仏陀も、座ったが、座禅による、悟りという、妄想ではなかった。

仏陀の教えは、行為であった。
生き方の、考え方と、その行為である。

いずれにせよ、それらを、検証する。

さて、私は、イエスキリストを信奉し、仏陀の教えを、信奉する。
そして、やはり、古神道の、あり方に、生きる者である。
古神道の、魂鎮めと、ニルバーナという、涅槃の境地は、同じものである。

仏や、神を、対立したものとは、考えない。

更に、古神道は、カミとは、御親、みおや、つまり、祖先に続く者であるという、意識である。

どこにも、断絶は無い。

ただし、仏教教団が言う、仏に成るという、観念とは、違う。あれは、断絶している。

更に、仏陀も、仏にはならなかったということが、仏陀の言葉で、証明されている。
それを、見落としている、仏教家の、面々であるから、終わっている。

また、仏陀が、苦行を、嫌った意味を、知らないのである。

寒中に寒修行するという、アホ振りである。氷点下の海に入って、一体、何を修行するというのか。とても、信じられない真似をする。水をかぶるという、馬鹿馬鹿しいことをして、修行も何も無い。
逆に、それによって、思考が固まり、とても、通常の神経とは、思われない、歪な性格を作り上げる。傲慢で、頑固な、手のつけられない、性格である。
あれは、サドマゾである。

厳しい修行に耐えて、大半が、頑迷な者に、成って行く。
ただ、念だけは、強くなり、レベルの同じ霊を相手に、戦うという、オチである。
それを見て、信者は、驚く。そして、洗脳される。

こういう、者どもを、救い難しという。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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