2008年06月05日

神仏は妄想である 84

宗教は疑いの余地なく、不和を生み出す力であり、これが宗教に対して向けられる主要な非難の一つである。しかし、宗教集団あるいは宗派間の戦争や反目が、神学的な意見の不一致についてのものであることは現実にはほとんどないということが、しばしば、そして正しく言われている。アルスターのプロテスタントで準軍事組織に属する男が一人のカトリック教徒を殺したとき、彼は「これでもくらえ、化体論者の、マリア崇拝の、抹香臭い畜生め! 」というようなことを呟いていたわけではない。彼は、世代を越えて持続する過程で、別のカトリック教徒によって殺された別のプロテスタントの死の仇を討とうとしていた可能性のほうがはるかに高い。宗教は、内集団、外集団の対立を巡る敵意と確執を物語るラベルであり、肌の色、言語、あるいは好きなサッカー・チームといった他のラベルよりもかならずしも悪いとはいえないが、ほかのラベルが使われないときに、しばしば使われる。
ドーキンス

差別的発言になることを、あえて言うが、欧米人、アラブ人は、どうして、あのような単細胞的行動を取って、人を殺すのか、理解に苦しむのである。
そして、殺人にまで、至るものは、すべて、宗教、宗派間の対立による。
もっとも、平和的であろうはずの、宗教により、暴力、紛争、戦争に、至るのである。

ヨーロッパの歴史は、宗教戦争に、明け暮れている。

現在のテロリストの、原理も、世界イスラム帝国へのための、テロなのである。
果たして、ユダヤ教、キリスト教が、それを、非難する、権利があるのか、疑問である。


そう、もちろん、北アイルランドにおける紛争は政治的なものである。そこには一方の集団による他方の集団の経済的、政治的抑圧が存在し、それは数世紀以前にまでさかのぼる。そこには現実に不備とか不正が存在し、それらは宗教とほとんど関係がいなように思われる。ただ一つーーーこれは重要であるが、ひろく見過ごされてきたーーー宗教がなければ、誰を抑圧し、誰に復讐するのかを判断するラベルがなくなってしまうだろうということを除いて。そして、北アイルランドにおける本当の問題は、このラベルが何世代にもわたって受け継がれてきたということである。・・・・・この二組の人間たちは、同じ肌の色をもち、同じ言語をしゃべり、同じことをして楽しむが、まるで別の種に属しているかのようであり、両者の歴史的な分裂は根深い。そして宗教と、宗教的に分離された教育がなければ、そうした分裂は絶対に存在しなかっただろう。コソボからパレスチナまで、イラクからスーダンまで、アルスターからインド亜大陸まで、対立する集団間の手に負えない反目と暴力が見られる世界のどの地域でもいい、注意深く見てほしい、内集団や外集団のしるしとして用いられるラベルのうち、宗教が大勢を占めていることに、たぶんあなたは気付くだろう。かならずそうだとは言えないが、その可能性は高いはずである。
ドーキンス

ドーキンスが、ここまで、分析していることを、宗教集団の人々が、読んで、何を感じるだろうか。
ほとんど、空言、戯言に、感じるだろう。
それほど、冒されているのである。宗教という、妄想に、である。

例えば、現在の日本の宗教に関しても、最澄の天台宗は、誤りである、空海の真言宗は、誤りである、等々を、仏教思想によって、解説しても、聞く耳を持たないだろう。
それほど、信じてしまうと、他の、客観的な、ものの見方を、受け入れなくなるのである。

仏陀本人が、仏に成ることが、出来なかったという、事実を、言う。
仏陀最期の、時である。
それを、知らない。
まして、それらの、伝言仏典によって、起こした、日本仏教の教祖たちが、何をか言う。
単なる、迷いの、宗派を、立ち上げただけである。

誰か、我、仏になれり、として、立教しただろうか。
誰一人としていない。
仏陀さえ、そうなのである。

極めつけは、悪魔の好む、法華経を、仏陀最期の教えとして、唱える者たちに、言っても、理解しないし、解らないのである。
また、聞く耳を持たない。

この、蒙昧は、計り知れないのである。
生活クラブ、仲良しクラブのような、組織にいて、仏法だと、喧伝しているのであるから、終わっている。
さらに、悪いことに、信者からの、金を、組織の社会的地位のために、さんざん使い、学校から、美術館から、何から何まで、やるのである。
騙されている、信者は、せっせと、教団に、金を運ぶ。
嬉々として、金を運ぶのである。

三次元に、少しかかっている、幽界のレベルの、狐の霊に憑依されている、ある教団は、平然と、手かざしにて、清めるという。
一体、何を清めるのか、解っていない。
邪霊、悪霊を、祓うというのか。
それを、指導している者が、邪霊、悪霊なのである。
笑う。

いずれ、日本の仏教の開祖を、徹底的に、検証する。

北アイルランドにおいて、このような事態を、引き起こしたものは、宗教指導者である。実に、無知蒙昧の指導者が、この、蒙昧な、状態の種を、蒔いたのである。
単に、宗派が違うというだけで。同じ神を奉じていても、である。

インドが分割された当時、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の宗教的な騒乱で100万人以上の人間が虐殺された(そして1500万人がすんでいた土地から追い出された)。誰を殺すかのラベルを貼るのに、宗教的なラベル以外には何もなかった。詰まるところ、彼らを区別するものは宗教以外になかったのだ。サンマル・ランシュディは、より最近に起こった宗教的虐殺の勃発に心を動かされて、「宗教は昔も今も、インド人の世に混じった毒である」というエッセイを書いた。ここに示すのは、その結びの文章である。

このどこに、あるいは畏れ多き宗教の名において世界中ではほとんど毎日のようにおこなわれている犯罪のどこに、尊敬すべき何があるというのか? たとえいかに致命的な結果がもたらされようと、宗教はなんと巧みにトーテムを立てることか、そしてわれわれはなんと唯々諾々とそのために人を殺すことか! そして、われわれはしばしばそれを十二分にやり遂げ、その結果として起こる感情の鈍磨は、それを繰り返すことを容易にする。
ゆえに、インドの問題は世界の問題となる。インドで起こったことは、神の名において起こったのだ。
その問題の名は神である。

良識というのは、宗教とは、関係なく、有るということである。
宗教以外の人々によって、世界の良識がなるといってもいい。

科学者と、無神論者と、高い霊的能力のある人々によって、新しい、生き方の、指針を学ぶべきである。
妄想の観念から、離れたところのもの、それが、必要である。

今、それを、私は、節に祈る。
世界が最悪の状態に、陥るのは、宗教の、信者たちによる。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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