2008年06月04日

神仏は妄想である 83

タマリンがこの実験において導入した、面白い対照郡がある。168人の別のイスラエルの子供の集団に「ヨシュア記」からとった同じテキストが与えられたが、ヨシュアという名前が「リン将軍」に、「イスラエル」が「3000年前の中国の王国」に置き換えられていたのだ。すると、結果は正反対になった。つまり、わずか七パーセントだけがリン将軍の振る舞いを是認し、七五パーセントが不同意だった。言い換えれば、ここで得られた数字からユダヤ教への彼らの忠誠心を取り除けば、このイスラエルの子供たちが示した道徳上の判断は、大部分の現代人が共有する道徳上の判断と一致するのである。ヨシュアがしたことは、野蛮な大量虐殺という所業である。しかし、宗教的視点からはまったくちがったものに見える。そして、この区別は人生の早い時期に植えつけられる。大量虐殺を非難する子供と容認する子供のあいだのちがいをつくるのは、宗教だったのだ。
ドーキンス

宗教という、迷いがなければ、真っ当な判断が出来るのである。
しかし、宗教の観念が入ると、それは、邪になる。
つまり、判断基準を、宗教が洗脳するのである。

無いものを、掲げて、一体、宗教というものは、何を望んでいるのだろうか。
人間の救いを説くが、一向に人間を救うことないもの、さらに、人間を、愚昧の行為に走らせる宗教というものは、何か。

日本でも、一神教に似た、日蓮宗系の信者は、宗旨が違うというたでけで、嫌悪の表情になる。
宗旨が、違えば、親の仏壇にも、手を合わせないという、強情さである。
手のつけられない、傲慢な、連中となる。
同じ地域、町内に、住んでも、単に宗旨が違うということだけで、対立する。

その、あまりに単細胞化した、心の様には、唖然とする。

要するに、宗教団体の兵隊になっている状態なのである。
仲間に出来そうだと、見れば、その親切は、限りなくなる。
同胞には、天使であるが、そうでない者には、悪魔になるという、矛盾である。

ある大学に入学し、同じ研究グループにいた者たちが、一人のS会の会員に、折伏されて、順に会員になった。残った一人は、最後まで、それを、拒んだ。
すると、イジメが始まった。
ついに、大学にいられなくなり、退学した。
このような、話は、実に多い。
兵隊になった信者は、後先が見えない。ただ、上の命令に従うだけである。
我を失い、我ならぬ者に、指揮されて、行為する。

更に、驚くのは、選挙運動まで、功徳を積むものだと、言われて、選挙運動させられる者たちである。

宗教団体になると、タブーというものが、なくなるという、よい見本である。

信じてしまうと、支配者の思うままである。
こうして、人生を騙されて送るという、一連の哀れな人々がいるのである。
勿論、賢い人は、近づかない、また、賢い人の中には、支配者に、取り入って、利益を得るために、画策するという者もいる。

ハートゥングは論文の後半で、「新約聖書」に話を移す。彼の論旨を簡単に要約すれば、イエスは、「旧約聖書」において自明のこととされていたのと同じ、内集団で通用する道徳意識―――外集団に対する敵意と表裏一体のものーーーへの帰依者であった、ということになる。イエスは愛国的なユダヤ人だったわけだ。ユダヤ教の神を非ユダヤ教徒が取り入れるという発想をひねりだしたのは、むしろパウロだった。ハートゥングはこのことを、私なら躊躇しそうなあからさまな言い方でこう述べる。「イエスは、もしパウロがその計画をブタにまでひろげることを知っていれば、墓の中で吐き気を催していたことだうろ」。
ドーキンス

要するに、キリスト教神学というもの、パウロなしでは、有り得なかったということである。イエスの、教えが、神学となったのではない。パウロである。
強迫思想のパウロによる、神学である。
パウロが、理屈づけした、考え方を、教義として、掲げたのである。

ハートゥングは、「黙示録」の二つの節に注意を喚起する。そこでは「刻印を受けた」(エホバの証人など、一部の宗派は、それを”救われた”を意味するものと解釈している)人間の数は14万4千人に限られている。ハートゥングの論点は彼らはすべてユダヤ人だったにちがいないということである。12の部族それぞれから1万2千人ずつというわけだ。ケン・スミスはさらに踏み込んで、この選ばれた14万4千人は「女に触れて身を汚したことのない者」だったことを指摘する。このことは、おそらく彼らのうちの一人として女ではありえないことを意味する。まあ、これは予想される類の事柄である。
ドーキンス

ユダヤ人の神を、世界人類の神として、崇めるという、キリスト教の狂いというものが、何故起こったのかということである。
パウロという、一人の男の妄想からである。
最初、パウロは、イエス集団の迫害者だった。それが、いつしか、というより、聖書には、イエスが現れて、パウロを改心させるという、お話になっている。
初期、イエス集団を、取りまとめて、公広流布させるべくの妄想である。
彼から、異教徒への、布教が始まった。
聖書は、内集団特有の道徳意識の青写真であり、外集団の虐殺と奴隷化、および世界支配のための指示といった必須要素が完備されたものだ。しかし聖書は、そういった目的をもっているから、あるいは殺人・虐待・強姦を賛美することまでしているから邪悪なのではない。それを言うなら、多くの昔の著作はみんなそうだーーーたとえば、「イーリアス」アイスランド・サガ、古代シリアの物語や、古代マヤの碑文などを見てほしい。しかし、「イーリヤス」を道徳の手本として売りこんでいる人間は誰もいない。そこに問題がある。聖書は、人々がどう生きるべきかの手引きとして売り買いされている。そしてそれは、世界でつねに郡を抜いたベストセラーなのである。
ハートゥング

ドーキンスは書く。
伝統的なユダヤ教徒がもつ排他性が宗教のなかで特異なものだと思われてはいけないので、英国の作詞家、アイザック・ワッツの賛美歌から確信に満ちた次の一節を見てみよう。
主よ、私はそれを、あなたの恩寵のゆえとします
偶然のせいにはしません、ほかの人間たちのように。
私がキリスト教徒の人種に生まれたことを
異教徒やユダヤ教徒の人種に生まれなかったことを。

すさまじい、独善である。
こう考えて、いる人と、どのように、話し合いが出来るだろうか。

この一節で私を困惑させるのは、そこに現れた排他性そのものというよりも、その論理である。他の多数の人がキリスト教以外の宗教のなかに生まれたのだから、神は、本来においてどの人種がそのような恵まれた生を受けるのかを、どのようにして決めたのか? なぜ神は、アイザック・ワッツと、彼が自分の賛美歌を歌っていると思い描いた人々に恩恵を与えるのか? いずれにせよ、アイザック・ワッツが受胎される前は、いったい何に対して恩恵が授けられたのか? これらは深刻な問題だが、神の声に耳を傾ける精神にとっては、それほど深刻ではないかもしれない。ワッツの賛美歌は、正統派で保守派(改革派ではない)の男性ユダヤ教徒が暗唱するように教えられる三つの日々の祈り、「私をキリスト教徒にしなかったことであなたを祝福します。私を女としなかったことであなたを祝福します。私を奴隷にしなかったことであなたを祝福します」を思い起こさせる。
ドーキンス

本当に、吐き気がする。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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