2008年06月03日

もののあわれ203

和泉式部日記を、読み終えて、そこにある、もののあわれ、というものを、見つめてみた。

平安期の、王朝文学の、担い手は、女性である。
それは、漢字平仮名交じり文にある。
正式文書が、漢字であり、漢詩が、また、正式な表現方法とされて、男が、成すものという、意識があった。

平仮名は、女子供のものという、意識にあり、そこでの、書き物は、男の興味のものではなかった。
それが、変わったのが、源氏物語による。

源氏物語は、フィクションである。
私は、その、物語の、伏線に、和泉式部日記を、見た。
それは、現実である。
現実に生きたものを、書いたという、点で、物語より、説得力がある。勿論、源氏も、別な意味で、説得力がある。

いずれにせよ、その底に流れるものが、もののあわれ、というものである。

文芸の者、それは、家系の伝統であり、世襲制でも、あった時代である。
その中で、女文学は、その一点、もののあわれ、というものを、観た。
また、求めた。

決してそれは、単なる、感傷文学ではない。
この世に、救いなどないが、辛うじて生きられる、心の有り様というものがある。
それを、和泉式部は、観ていた。

敦道親王との、恋は、その邸に、上がり、その前後は、五年間である。
親王は、27歳で死去した。式部は、34歳であった。

日記に、親王の邸に、上がるということを、
つれづれもまぎるれば、参りなまほしきに
と、ある。

燃える恋をいしている式部が、親王の邸に、上がることを、このように、捉えているということに、驚いた。
燃え上がる恋心とは、別の視線がある。
つれづれの、何が、紛れるのか。
つれづれ、とは、所在無い、侘しいのような、意味とみる。

命を賭けた恋でも、つれづれの、となるのである。
これは、知性である。

つれづれと 今日数ふれば 年月の 昨日ぞものは 思はざりける

昨日は、何と物思いの、無い、満たされた日。
今までは、物思いばかりの日だったというのである。

一体、和泉式部は、何を、物思っていたのか。
生涯、物思いに明け暮れていたと、見る。

面白い話が、残っている。
栄華物語、大鏡にも、書かれるほど、奇異なことだった。

寛弘二年四月、加茂の祭りが行われ、その祭りに、親王と式部が、車に乗り、見物した。
宮は、牛車の御簾を高く巻き上げた。
式部は、御簾を垂らして、その隙間から、紅の裳だけを出して、その裾に、赤い幅広い紙をつけて、何と「忌中」と書いて、地に曳いていたという。

人の噂になっていることを、十分に承知での行為である。

この大胆不敵な行為は、つまり、私は、忌中、死んだということである。
恋に死んだ。
そういうことである。
そして、式部は、いつも、恋に死んだ。

若き日、性空上人のもとにて道しける
暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき はるかに照らせ 山の端の月

という、名歌を詠んいる。

仏の教えを受けたところから、山の端の月とは、仏の光、救いの慈悲ともみるが、しかし、そうではなかった。
そんなものは、救いにも、何にもならなかった。

式部は、ただ、もののあわれ、というものを、見つめて生きるしかなかった。
それは、知性である。
歌は、感性による。

命懸けの恋にも、つれづれなぐさむ、という、実に醒めた目をもって、臨んでいたのである。

紫式部は、身持ちの固い女であった。
和泉式部は、自由奔放な女であった。
一人は、散文で、物語を、一人は、歌で日記を書いた。
そして、二人が、共に観たものは、もののあわれ、であった。

和泉式部は、多くの人の、死に出会っている。
我が娘の亡き後に、詠んだ歌がある。

置くと見し 露もありけり はかなくて 消えにし人を なににたとへむ

置くとすくに、消える露さえ、このように、消えずに残っているというのに、それより儚く消えた娘を、何にたとえましよう。

さらに、親を亡くした孫に歌う。

この身こそ このかわりには 恋しけれ 親恋しくば 親をみてまし

この私こそ、あなたの親の代わりです。母が恋しい時は、その母の親を見るとよいのです。

和泉式部の、別な一面である。

人生というものを、様々な観念、言葉で、捉えるが、言い表すことが、出来ない、日本人の心情にある、もののあわれ、というものを、見定めて、生きた一人が、和泉式部であったという。

一応、和泉式部日記は、終ります。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれに第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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