2008年06月03日

神仏は妄想である 82

ハートゥングの聖書解釈が示すところによれば、聖書はキリスト教徒のあいだにおけるそのような独善的な自己満足に、何の根拠も提供しない。イエスは自分によって救われる内集団を厳密にユダヤ人に限定しており、その点で彼は「旧約聖書」の伝説を継承しているのであって、それが彼の知っていることのすべてだった。
ドーキンス

それは、私も、そう考えた。
二千年前の、あの地方の世界の情報が、如何なるものであるかを、知ることである。世界という、意識が、どのようなものであったのかをである。

当時のユダヤは、ローマの属国である。
ローマの、情報を得て、細々と、ユダヤ人は、ユダヤ教を信奉して暮らしていた。実に、偏狭な教えに、縛られていたのである。
どのような、情報が、もたらされるのか。
その中での、イエスの宣教である。

最初、イエスに従った者たちは、イエスが、ローマからの独立を目指す、指導者になると、信じていた。
その程度である。

そして、ハートゥングは「汝殺すべからず」というのはもともと、現在の使われ方とはまったく異なった意味で用いられていたということを、明快な形で示す。つまり、それは非常に特異的に、汝ユダヤ人を殺すべからずということを意味していたのだ。そして「汝、隣人を」と言及されたあらゆる戒律は、同じように排他的なものだった。「隣人」というものは仲間のユダヤ人を意味するのである。12世紀の高い尊敬を受けていたラビで医師であったマイモニデス(モーシェ・ベン・マイモーン)は、「汝、殺すなかれ」が厳密にはどういう意味であるか次のように解説している。「もし、誰かが一人のイスラエル人を殺せば、彼は禁止命令に違反したことになる。なぜなら、聖書は汝、人殺しをするなと言っているからである。もし誰かが目撃者のいるところで故意に殺人をなせば、彼は刃にかけて殺されることになる。言うまでもないことだが、その人間がもし異教徒を殺したのであれば、殺されることはない」。言うまでもない、ときた!
ドーキンス
ハートゥングとは、進化人類学者である。

驚くべき、頑迷であり、明確な、蒙昧である。
イスラムと、同じようなことを、言う。
異教徒は、殺せ、である。

更に、キリスト教徒は、未開の部族、キリスト教徒ではない、民族を、人間とは、思わないという、仰天である。

イギリスは、植民地時代、アフリカの黒人を、奴隷として、アメリカ大陸に送った。
アメージング・グレイスという歌は、その、奴隷船の船長が、罪悪感を痛切に感じて、聖職者になり、作った歌である。
今では、民謡のように、黒人霊歌のように、歌われている。

罪悪感を感じて、聖職者になるという、ズレた行為であるが、事実である。

この章は、「よい」聖書と移り変わる「道徳に関する時代精神」というテーマである。

結果的に、ドーキンスは
宗教を信じようと信じまいと、私たちの道徳心は聖書とは別の源泉からやってくるのであり、そしてその源泉というのは、それが何であれ、宗教のちがいや宗教をもたないことにかかわりなく、私たちの誰もが手にすることのできるものである。
と、言う。

宗教による、と、思われている、道徳感覚は、実に、偏狭なものであり、それ自体が、歩き出すと、宗教の違いで、大きな、摩擦、あるいは、紛争、闘争を伴うものである。
人類は、宗教ではなく、別のもの、を、道徳の源泉として、知るものである。
ドーキンスは、それを、言う。

それは、進化の過程における、生き延びるための、方法だった。
何のことは無い、実に、単純明快なものである。

道徳の、一つの側面として、礼儀作法というものがある。
それを、一つとっても、その地域、その国の、伝統や、習慣、慣習による。そして、それによって、摩擦はあっても、互いに知るということで、摩擦を、避けることができるのである。しかし、宗教によれば、それは、戦いに成る。

一歩も、譲ることのない、宗教というものの、愚昧で、偏狭な教義では、最早、平和裏に事を行えない。

宗教間の、対話という、茶番が、時々行われて、理解を深め、互いに、尊重しあうということが、まことしやかに、行われるが、単なる、世間へのアピールに過ぎない。
そんなことが、本気で、行われることはない。

それが、行われれば、こんな事態にはなっていないのである。

宗教から、抜け出すというのは、麻薬中毒の人が、麻薬から抜け出すのと、同じ程度に、大変なことである。

一見して、平和的に見える、宗教団体の活動も、すべて、偽善である。
それは、道徳的でも、平和的でも、無い。
単なる、宗教の宣伝である。
それも、実に、心の狭い、教義に絞られたものである。

ドーキンスも、言うように、生きるための、ある情熱の誤作動による、信仰という行為を、軌道修正して、人間の知性と、感性を育て、理性により、行為するという、人間教育が必要である。
それは、まず、疑うこと、考えることから、はじまる。

価値観の、先入観を取り除くという、実に、大胆な手術が必要である。

先入観とは、神仏が、存在するという妄想である。

キリスト教徒は、虚心胆管に、聖書を読むということが、大事である。
そして、聖書を、検証すべきである。

教会の教えではなく、自分で、読んで考えるべきである。

ちなみに、信じるということから、発する行為は、愚昧である。

聖書というのは、旧約や、新約と言われるように、契約のことである。
神との、契約なのである。一見、何事もないように、思えるが、契約とは、取引である。何と何を、取引するのであろうか。
相手は、悪霊である。

神というものは、神と、名乗ることはない。神は、いないからである。



posted by 天山 at 00:00| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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