2008年06月02日

神仏は妄想である 81

私はここまで、キリスト教の中心教義である贖罪が悪質で、サドマゾヒズム的で、不快なものであると述べてきた。それがあらゆるところに身近なものとして存在し、私たちの客観的なものの見方を曇らせてきたということさえなければ、狂人の遠吠えとして片付けてしまえたかもしれない。もし神が私たちの罪を赦したいと望んでいるなら、なぜ、その代償として自分が拷問を受け、処刑されたりせずに、ただ赦さなかったのか。ついでに言えば、神がそんなことをするから、ユダヤ人のはるか未来の世代までも、「キリスト殺し」として虐殺と迫害を受けるべく運命づけられてしまったことになるのだろう。この連綿と受け継がれる罪も、精液を通じて子孫に伝えられるものだと言うのか。
ドーキンス

実際、イエスの、原始キリスト教とは、ユダヤ人のイエスキリストであった。
しかし、それが、ユダヤ人のキリスト教徒は、皆殺しされて、ローマカトリックが、正統とされた。
勿論、権力によってである。
ドーキンスも、後で言うが、イエスの教えは、ユダヤ人に向けてのものである。
隣人愛という、教えも、ユダヤ人に、与えられたものである。
それが、何故、こんな、歪な世界宗教になったのか。
すべては、フランク王国時代からの、いや、それ以前からの、ゲルマン人の野蛮さによる。

彼らは、インド大陸においてさえ、インドの伝統と、宗教を徹底的に、壊して、滅茶苦茶にしたのである。
バラモンなどは、彼らからのものである。
野蛮極まりない教えである。

大航海時代に、野蛮な彼らは、キリスト教の十字架を、未開の地に、掲げて、その土地の民族を皆殺しにして、平然と、侵略行為を行い、我らこそ、神に選ばれた者であるという、実に、傲慢な意識で、好き放題にやったのである。

イエスが、ユダヤ人ではなく、白人に、変容させたのも、彼らである。

イエスは、ユダヤ人である。


パウロは、・・・・
血を流さずして贖罪はないという古いユダヤ教的な神学原理にどっぷり漬かっていた。実際、彼は「ヘブライ人への手紙」において、それに等しいことを言っている。だが、今日の進歩的な倫理学者は、いかなる種類の応報刑論も擁護しがたいものであると考えており、とすれば、罪人の犯した罪の代償として無実のものを処刑する、いわゆる身代わり説などは論外ということになる。いずれにせよ、神はいったい誰のためにアピールしようとしていたのか。(という疑いを禁じえない)? おそらく彼自身であろうーーーなにしろ彼は、処刑される犠牲者であると同時に、判事でも陪審員でもあったのだ。挙句の果てに、原罪に手を染めた張本人と想定されているアダムは、そもそもけっして存在しなかった。この、なんとも無様な事実―――パウロが知らなかったとは仕方が無いが、全能の神(そしてもしイエスが神だと信じるならばイエスも)おそらく知っていたーーーは、このもってまわった、胸くその悪くなる理論全体の前提を根本的に突き崩すものである。
ドーキンス

これで、キリスト教の根本教義は、成り立たなくなる。
全人類の罪の贖いによる、十字架というもの、である。

キリスト教徒は、本当に、聖書というものを、読んでいるのか。
読んではいない。
旧約聖書から、真っ当な感覚で、読み進めば、その、知性と理性によって、おかしいと、気付くはずである。
要するに、惰性と、習慣、慣習によって、成り立ったもの、それが、キリスト教である。
だが、それは、手加減して言うことである。

すべては、教会という、お化けが、人を支配するために、掲げた、教えである。

ローマが、突然のように、キリスト教を、国教と、公認したのは、皇帝の支配に善しとしたゆえである。更に、ローマに、教会を建てた、カトリックは、皇帝と結んで、人の心の支配を、確実にした。

そして、そうだ、もちろんアダムとエバの物語は、象徴的なものでしかなかったはずだーーーあくまで象徴的な。ということは、自分自身にアピールするために自らを拷問し、処刑したイエスは、実在しない個人が犯した象徴的な罪のために、身代わりとして罰を受けたことになるのだろうか? 何度も言うようだが、これは狂人のたわごとであるだけではなく、不愉快この上ない言い草である。
ドーキンス

真っ当な、神経の者から、見れば、こういうことになる。

カトリック教会のみならず、すべての、キリスト教徒に言えることだが、信仰は、極めて個人的行為であるから、信じるというならば、言うことは無い。
ただし、それを、喧伝する、更に布教する、そして、宣教ということになれば、多くの混乱を、引き起こすこと甚大である。
聖書を、読むというのは、他人には、趣味のようなことである。

自分の趣味を、人に押し付けるような、無礼な者は、いないであろうが、いるとするならば、それは、僭越行為以外の何物でもない。

全く、悪魔のような、神の思想と観念であること、真っ当な者ならば、知る。
いや、悪霊としか、いいようがない。

イエスが、悪霊に支配されていた、ということも、有り得るのである。
自作自演の、大芝居ならば、拍手を送るが、それを、正しい教えであり、人類を救うというのならば、認められない。

人間は、救われる、必要も無ければ、更に、仏教が言う、仏に成ることも無い。
人間は、人間であれば、いいのである。

救われるという、妄想、神の存在の妄想、果ては、仏に成るという、妄想は、如何に、人生が、暇つぶしであろうと、あまりに、愚かである。
何故、天国に入る必要があるのか、何故、仏に成る必要があるのか。

知恵を、得ることは、大切なことである。
それが、霊的能力を、目覚めさせるというなら、解る。
それが、生きるということを、肯定するというなら、解る。

旧約聖書、箴言の書に、神を恐れることは、知恵のはじめ、とある。
神という、妄想を、想定しなければ、考えることができないというほど、妄想の観念に、やられてしまうということ、である。

「旧約聖書」「新約聖書」の両方で一見推奨されているように見える、他者に対する道徳的配慮の多くが、もともとは非常に限定されたもので、そこに属する個人が帰属意識をもちやすい、いわゆる内集団に対してのみ適用されたものであったことを、キリスト教徒はほとんど認識していない。「汝の隣人を愛せよ」は、私たちが現在考えているようなことを意味するものではなかった。それは、「ほかのユダヤ人を愛せよ」という意味でしかなかったのである。この点は、アメリカ人の医師で進化人類学のジョン・ハートゥングによって、衝撃的な形で論証されている。彼は、内集団の道徳の進化と聖書における変遷について、その裏の側面―――外集団への敵意―――にも重点をおきながら、一つの注目すべき論文を書いたのだった。
ドーキンス

次に、この、ジョン・ハートゥングの論文を、見る。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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