2008年06月01日

神仏は妄想である 80

しかし、その十字架を支える神学と懲罰理論は、それよりさらに悪いものだ。アダムとエバの罪は男系の系譜に沿って伝えられてきたと考えられている。―――アウグステイヌスによれば、精液によって伝達されることになっている。すべての子供に、生まれてくる前にさえ、はるかに遠い祖先の罪を受け継ぐように強調するというのは、いったいどういう種類の倫理哲学なのか? ついでながら、アウグスティヌスは当然のように、自らを罪に関する個人的な権威をもつ人間だとみなしていて、「原罪」という表現を造語した張本人である。彼以前には、それは「先祖の罪」と呼ばれていたのである。
ドーキンス

この、アウグスチヌスというのは、カトリックでは、教父とされ、聖人である。
ちなみに、彼は、さんざん女遊びをして、飽きた。そこで、改心して、神の信仰に、のめり込んだ。
女の次に、神にである。
聖人の中には、そいう者、多数。
いい気なものである。

女と、365日セックス三昧で、三年も続ければ、飽きるに決まっている。
その次に、改心をして、神の信仰に生きたという。
これが、聖人という者の、定番である。

更に、悪いのは、そのセックスを罪、罪、罪、罪、更に、罪と、よく言うものである。

人の人生に君臨しようという人物にしては、なんという意地悪くけちくさい偏見であることか。サム・ハリスは、「キリスト教国への手紙」において、爽快なまでに手厳しい。
「あなたがたの主たる関心は、宇宙の創造主が、人間が裸でするような行為に腹を立てるだろうか、ということにしかないようだ。あなたがたのこの潔癖さが、日々、過激なほどの人間の悲惨さに貢献しているのだ」。
ドーキンス

宗教は、夫婦の寝室を、監視することで、成り立つという、不自然さである。
セックスに介入することで、人間を支配しようとする。

本能を、罪とするのだから、終わっている。

ちなみに、日本の古神道、及び、民族伝統宗教は、多く、本能を、恵みとして、捉える。
欲望を、恵みという、健康的なものとして、捉えるのである。
更に、欲望を、命の讃歌とする。
実に、真っ当である。

罪の意識を、抱いて、シコシコセックスするという、真似はしない。

さて、このキリスト教神学を作ったのは、イエスではない。
その弟子たちでもない。
イエスの死後に、一人の強迫神経症の男が、イエスに、突然改心したのである。
その名を、パウロという。

話をサドマゾヒズムに戻そう。神は、アダムから受け継いだ罪の贖いとして拷問され処刑されるために、人間イエスとして自らを顕現させた。パウロがこの不快な教義を説いて以来ずっと、イエスは私たちすべての罪の救い主として崇拝されてきた。アダムの過去の罪だけではない。未来の罪までも救うのだ。本来の人々がまだその罪を犯そうとしてもいないのに。
ドーキンス

ここで、主イエスの十字架により、我々の罪が許されているのだ、さあーー、遊び尽くせという、教義が、現れないのが不思議だ。
親鸞ならば、主イエスが、すでに、未来の罪も許している、私は罪人だから、どんどん、女と寝る。この、どうしょうもない、罪深い人間である、私は、主イエスに救われている。
南無イエスと、念仏、いや、念主を、作り上げるだろう。

手のつけられない、屁理屈を、作り上げるのが、宗教家の、得意技である。

それを、後世の人が、あんたら、こんたらで、こんたら、あんたら、である。と、解説するという、愚劣である。
深い迷いこそ、信仰の深さである、等々、しょうもない、屁理屈を、あたかも、考えているかのように、考えるという、頭の悪さである。

空海ならば、その悪魔の神を、縦横無尽に使い、護摩を焚いて、招霊し、おどろおどろしく、ヤーウェ曼荼羅を作り上げて、奇跡を行い、密教の上前を跳ねるだろう。

知能レベルが、低いほど、あの、曼荼羅というものに、曳かれるらしい。
さらに、宇宙を表すものだというから、呆れる。

芸術というなら、解るが、拝むものでも、奉るものでもない。

ユダの失われた福音書と称される写本が最近になって翻訳され、その結果、広く世間に知られることになった。その発見の状況には論争があるが、1970年代あるいは60年代のいずれかの時にエジプトで発見されたように思われる。それはパピルスに書かれた62ページのコプト語写本で、炭素年代決定法によって西暦300年前後のものとされるが、おそらくは初期のギリシャ語原本から写されたものである。著者が誰であれ、この福音書はイスカレオテのユダの視点から書かれたものであり、ユダがイエスを裏切ったのは、イエスが彼にその役割を演ずるように頼んだからこそであったことを証拠立てている。イエスが磔になったのはすべて、人類を救うための計画の一部だったのだ。この教義は胸くその悪いものであるが、ユダがそれ以来ずっとけなされてきたという事実は、不愉快さをさらにいっそう募らせるように思われる。
ドーキンス

私も、すぐに、ユダの福音書を読んだ。
その手の、危険な書物は、最初、日本語に訳される。
日本では、ユダヤ教もキリスト教も、騒がないからである。

ちなみに、「キリストの棺」という、本が出て、センセーショナルを巻き起こしている。勿論、キリスト教国である。
イエスの妻の、マリアと、息子との、墓が、見つかったというものである。
新約聖書に、出ている、マグダラのマリアが、妻だという。息子もいた。
その墓が、見出されたというものである。

科学で、実証されたものである。
しかし、すべての、キリスト教は、無関心を装う。
当然である。
すべてが、覆る。

イエスの死体は、無い。
昇天したからである。
今更、墓が、見つかり、死体があったなどと、認めるはずが無い。

事実は、どうでもいい。
宗教とは、妄想で、いいのである。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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