そうして、二三日、何の音沙汰もなく、過ぎました。
頼もしそうに、仰せになったお言葉も、いったい、どうしてしまったのかと、思い続けていますと、眠ることも、できません。
目を覚まして、臥していると、夜も、ようやく、更けたと思う時、門をたたくものがありました。
誰であろうかと、思い、取次ぎの者に、問わせますと、宮様からの、御文でした。
思ひかけぬほどなるを、「心や行きて」とあはれにおぼえて、つま戸押し開けて見れば、
宮
見るや君 さ夜うちふけて 山の端に くまなくすめる 秋の夜の月
うちながめられて、つねよりもあはれにおぼゆ。門も開けねば、御使待ち遠にや思ふらむとて、御返し、
女
ふけぬらむと 思ふものから 寝られねど なかなかなれば 月はしも見ず
とあるを、おしたがへたるここちして、「なほ口をしくはあらずかし、いかで近くて、かかるはかなしごとも言はせて聞かむ」とおぼし立つ。
思いがけぬ時間でした。
「心が、通じたものか」と、嬉しく思い、妻戸を開けて、読みますと、
宮
みるやきみ さようちふけて やまのはに くまなくすめる あきのよのつき
御覧になっていますか。
夜が更けて、山の端に、澄み渡る秋の夜の月を。
宮様の、歌にひかれて、思わず、月を眺めました。いつもより、いっそう、あはれに感じられました。
門を、開けていませんでしので、御使いも、待ち遠しくなると思い、お返しの、歌を、差し上げました。
女
ふけぬらむと おもふものから ねられねど なかなかなれば つきはしもみず
夜が更けても、眠られません。
しかも、月は、まだ、見ないことにしています。
月を見ますと、思いが、募ります。
と、詠んでありましたので、宮様は、不意を突かれた思いがして、「やはり、口惜しい女ではありません。何とかして、身近に置いて、このように、慰めの、歌を詠ませて、聞きたいものだ」と、決意を、持たれました。
「心や行きて」とあはれにおぼえて
つねよりもあはれにおぼゆ
心が通じて、あはれ、に、思う。
常よりも、あはれ、に、思う。
何事かに、感じる心の、様を、また、あはれ、という言葉に、置くのである。
心が通じて、嬉しいという、感情を、あはれ、とみる。
常よりも、あはれ、とは、いつもより、一層、感慨深いということである。
喜怒哀楽、そして、様々な心象風景が、あはれ、なのである。
心に感ずることの、すべてを、あはれ、で、表現する様を、何と、説明するのか。
この、あはれ、という、感覚を、いつから、日本人は、培ったのか。
再度、万葉集を、読むべきである。
心の、動きにある、本質的なものを、あはれ、と、表現するようになる、過程にある、日本人の精神の成長である。
漢語では、表現、し尽くせないものが、あった。
ひらがな、により、始めて、そのように、本質的な、心模様を、書き表すことが、出来たのである。それには、その発生過程がある。
天真爛漫な、万葉の人々の歌、言葉から、心を、捉えて、更に、推し進めると、その、表情の裏に、静かに、眠っていた、あはれ、という、翳りのような、感覚、心象風景である。
ようやく、一音に意味ある、日本語の、表現が、ひらがなによって、成ったといえる。
つまり、一音の意味が、あったといえる。
ただ、書き伝えなかったのである。
当たり前すぎて、書き伝える必要がなかった。
書かれたものがあるということは、書かれなかったものも、あるということである。
その、書かれなかったものを、探る行為を、学問という。
それでは、現在言われる、学問とは、書かれたものが、ある、ということが、前提である。
学問を、ものならう、と、読んだ。
ならう、とは、現在の、習うではない。
ならう、とは、思いを込めることなのである。
つまり、書かれなかったものを、思い詰めることである。
感受性である。
推論、想像、妄想を、超えて、探る行為である。
それは、日本人であれば、こそ、通じる心象風景である。
言葉というものの、心象風景である。
あはれ、とは、日本人の心の本質を、言う。
それは、一人の人間を、表現するのに、一言葉では、表せないように、あはれ、というものも、一言葉ではなく、様々な、形で、所作で、言葉で、現すものなのである。
万葉集から、源氏物語に、貫く道、そして、源氏物語から、現在にまで、貫く道、それが、もののあわれ、であるということ。