2008年02月11日

神仏は妄想である 24

あくまでも人間の全体が生きているところに、人間性の深みが存在する。そして、人間の全体とは、しゃばに生きている人間の現実の生活の全体以外の何ものでもない。「人間性の深み」が虚妄になるのは、それを特別に担当する部門として宗教が立ち現れる時である。(宗教でなくても、精神でも道徳でも、あるいは文学でも、ことは同じである)。「人間性の深み」を特別に担当する部門が作られれば、「深み」が人間性そのものから切り離されて、虚妄になる。

田川氏の、これを、読むと、如何に現実が絶望的であるかが、解る。
宗教は、糞の役にも立たない言葉を、妄想を語って、平然としている様、明らかである。

しかし、それに、気づかないのである。

現実から、遊離したところで、生きるということを、語る。神や仏という、手品のような、存在を利用してである。

小児科医、産婦人科医が、減少して、精神科医が多くなっている。何故か。
楽して、金になるからである。
心療内科などは、初診の際に、それなりに、話は聞くが、以後は、薬を処方するだけである。処方で、金になる。
治癒などしないから、いつまでも、患者は、良い客である。

医者が、人を助けるという、奉仕の精神から離れて、金儲けとしての、商売になったのである。
医療が、商売に堕落すると、本当に、人間は救われない。

このような、精神的状態を作り出したものは、何か。
誰の、教育か。

さらに、教師の精神疾患である。休職する、教師の半分が、精神疾患である。

現実である。

文部科学省も、日教組も、何の手を打てないのである。
スローガンだけは、一人前である。
支配層に入ると、皆々、このようになる。

事件は、現場で、起きている。
まだまだ、例はある。
しかし、省略する。

人間の全体とは、しゃばに生きている人間の生活の全体以外の何ものでもない。
田川氏の、言うとおりである。

マスコミ等々も、それを報道して、のうのうとして、犯人探しをする、程度で終わる。

環境破壊についても、そうである。
テレビ朝日は、古館という、アホを前面にして、このままでいいのか。一人一人の自覚と、環境に対する云々というが、その、古館が、どんな生活をしているのか、何も、言わない。こういう、偽善が、まかり通るのである。

虚妄である。

更に、虚妄なのは、宗教である。
実は、田川氏が言うより、宗教の実体は、酷いのである。

虚妄ならば、まだいい。詐欺である。

鎌倉、鶴岡八幡宮という、神社がある。
あれは、昔、寺であった。源頼朝は、鶴岡八幡宮寺として、建立した。
明治に、神社となった。

私の知り合いが、子供の祈願をお願いした。
五千円、八千円、一万円の、お祓いコースがある。
一番、安いコースにした。すると、裏にいた、神主が、舌打ちをした。なんだ、五千円かと。
こういう、ことである。
それで、神職というから、笑う。

あすこに、降りる神は、いない。
それならば、その横にある、正一位の、稲荷の方が、まだ、ましである。

鎌倉に住み、私は、深夜、八幡宮の前に行き、祝詞を唱えて、その、神の様を感じようとした。
虚無である。

太鼓持ちの、霊能者もどきが、神の波動の強い神社の一つというが、大嘘である。

御祓いに、コースをつけるという、虚無である。
巫女に、尋ねた。何が違うのと。
お渡しする物が、違いますと言う。

全く、商売ではないか。

あそこで、清め祓いしたものに、神気など、宿るわけが無い。
程度が知れた。

寺だった場所が、無理やり、神社にされたのである。
私は、二度と、拍手を打つことがない。

実に、解りやすい例を上げてみた。

日本人の潜在的信仰心を、利用しての、商売であるから、最も、罪が重い。
高天原霊界とは、勿論、富士霊界とも、何の関わりが無い。
あの、神社の上空に、精々神の世界を創造しているのみである。
そんな者が、感応しては、具合が悪くなるだけである。

何故宗教では近代合理主義の「知」を克服できないか。暴力的な技術の発達を知性の勝利と呼び、資本の論理に見合う合理性のみを合理性と呼んできた近代合理主義は、その結果生じるさまざまなゆがみ、ひずみの応急手当を宗教の手にゆだねた。近代になって滅びるかと思われた宗教は、こうしてむしろ近代にこそ自分独自の居場所を見つけることができて喜んだ。近代合理主義からこぼれ落ちる非合理の側面にこそ宗教の真理があると思った。けれども、近代合理主義が暴力的につっ走るからこそ、ゆがみひずみ痛む部分が生じるのであって、近代の「宗教」がその部分を非合理の真理として珍重している限りは、近代合理主義を克服することを目指しているようでありながら、実はそのおこぼれにあずかっているにすぎないのである。

ここまで、言われても、宗教は、何も言えない。
そんな、問題意識もないにも無い。
相変わらず、天国、地獄や、極楽等々の、荒唐無稽のお話に、始終する。
そして、ご供養とか、念仏三昧、題目によって、宿命転換をと、大嘘を言う。

カトリック教会では、信者は、教会の中では、平和の祈りをあげて、平和を演じするが、外に出ると、鬼になるという驚き。
キリスト教カルト集団は、おたく、のように、引き篭もり、その仲間と共に、妄想の中に浸りきるという、仰天。
どこから、出てきたのか、千年王国などという、アホのような話に、大の大人が、傾倒するという、狂いである。
自分たちだけは、神の国に入ると、信じる。勿論、神の国ではなく、悪魔の住まいに入るのであるが、そこを、神の国だと、信じるきるという。ホント、哀れである。

大乗経典の、嘘八百の経典を持って、仏陀の最高の教えであると、声高々に言うアホども。仏陀は、一言も、そんなことは、言わないということを、知らない。
実に、世の中が、無明なのではなく、その本人が、無明であるとこを、知らないのである。

宗教信仰も、今の世の中の「知」のあり方はどうもおかしいと感じ、それを克服しなければならないと願う初発の力になることができる。その意味では近代における宗教信仰の意味を評価する必要もあろう。けれども、初発の力にとどまっていては先に進めない。宗教は初発の力を生み出すが、初発の力を越えて先に進むことを妨げる。
無知に居直っても、知性の荒廃は救えないのだ。いま必要なことは、そこらあたりにころがっている「知」をはるかにこえる深く鋭い洞察力を全人間的に、かつ全世界的なつながりをもって、養うことではないのか。

無知に居直ると、田川氏は、言う。
宗教は、無知に居直っているのである。そして、堂々として、無知に居直るというのが、また、宗教である。

鋭い見識は、また、初発の力を越えて先に進むことを妨げると、言う。

信者を支配することが、出来るという、傲慢が、そうさせる。
信者は、アホだから、どうにでもなると思うのである。
信じる者は、一度信じると、いくらでも騙せると、信じる。

織田信長が、比叡山を焼き討ちした。
非情な命を下した。
女子供に至るまで、皆殺しにせよ、である。
その先頭に立った、秀吉は、女子供を殺すのに、忍びないと、逃す。
しかし、ほぼ全域を、焼き討ちした。

僧たちの、堕落極まりない所業を見ての、信長の怒りである。
その当時、信長は、キリスト教宣教師の、命がけの、宣教の様に、驚いていた。
この教えに、何かあると、見抜いた。
宣教師と、僧侶との、対決も、目の前で見た。

焼き討ちするしかないと、決断した。

それは、それで、一理ある。
しかし、その後、秀吉は、政治家の勘で、宣教師の本質を見抜いた。
植民地政策の、変形したものであると。
彼らの教えに、従うと、日本国の、根幹が、揺らぎ、果ては、日本国が崩壊し、キリスト教国の、植民地になると、察した。
キリシタン禁制である。

秀吉は、キリスト教徒に、最も、相応しい、殉教という、僥倖を、皮肉にも、与えた。
長崎の26聖人として、ローマカトリックから、聖人に上げられた者を、生み出した。

九州のキリシタンの資料は、多くあるが、実は、蝦夷地、北海道にも、キリシタンたちは、逃れている。その様は、地獄のようなものである。

教えに生きるという、無知蒙昧は、計り知れない犠牲を生む。

その、淡々とした、人生の様に、意義を見出すのは、至難の業である。しかし、宗教は、そこに、大きな希望と光を与える。
我らは、神の子。ゼウスの元に、集え。

どんな、苦難を受けても、信仰を守るという、人生の目的意義を見出す。
人生とは、何か。
宗教とは、何か。
そして、生きるとは、何か。

それに、宗教は、答えない。
勿論、答えを出すが、それは、知性ではない。まして、感性でもない。
蒙昧であり、無明である。

潜在意識の、広大な世界にある、広大無辺な領域に、一滴の水を垂らすのが、宗教である。
それを、救い、という、妄想に高めるのである。

つまり、潜在意識の、不明に、救いという観念を植え付ける。

目の前で、自分の子供が、無残にも、殺されるのを見る、キリシタンが言う。
どうぞ、殺しくだされ、我らは、ゼウスのハライソに行くのである。
そして、子供に言う。
一時の、苦しみぞ、その後は、ゼウスの国、ハライソに行くのだぞ。

その、キリシタンたちの霊が、未だに、さ迷っている事を、知る、真っ当なキリスト教徒は、いない。
人間とは、愚かなものである。

そして、更に、人間の愚かさを、助長するもの、それは、宗教である。

宗教は、眺めるものである。
必要なことは、信仰である。
観念ではない、信仰である。それは、宗教に似るが、宗教ではない。宗教的ではあるが、宗教ではない。

その対象は、自然である。
宇宙を含む自然への、信仰そこ、大切な、真情である。

人間の想像を超えた、自然に対する、畏敬の思いは、生命の畏敬となる。
生命の畏敬は、わが身の完結である。

命あるもの、すべてに通じる、生命の畏敬こそ、信仰といえる。
拝むものは、太陽、山川草木にある。
そこにしか、生きられないのである。
何によって生きるのかとは、真実である。
自然を離れて、生きる道は無い。
宇宙の外に出て、宗教は、活動すべきである。そこが、相応しい場所である。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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