2008年02月11日

神仏は妄想である 21

田川健三氏の文を続ける。

もしも混雑する階段で誰かがころんで、上から殺到する人の波に踏みつぶされて死んだとすれば、たとえ直接にその人を踏んだのではなくても、はるか上の方で押していただけであっても、その人の死に責任がないとは言えまい。まして、その人がころんだのが偶然ではなく、上からどんどん押してくる人波の力を支え切れずにころんだのだとすれば、はるか上の方であっても、押していた人々はその人の死に責任がある。今の世界はいわばそのような構造になっている。かなりな数の人が押しつぶされて死んでいるのに、圧倒的多数の人々はその上を踏んで走りぬけ、うまく走りぬける者たちが非常に繁栄する。しかもたいていの者は、自分たちが押してつくり出す人波の力が何人もの人を押し倒して殺す力になっているということを全然自覚していない。

強者はよほど深く鋭い洞察力を身につけない限り、正義を知ることはとてもできないのだ。今の日本人に何が求められているのか明らかであろう。

実は、これこそ、宗教家が、提唱することであり、そして、自ら、行為して、世の中に訴えることである。
しかし、見ての通りである。

驚くべき、馬鹿馬鹿しいことがあった。
昨年、12月15日、築地本願寺で開かれた、東京ボーズコレクションである。
ボーズとは、坊主、つまり、僧侶のことである。

天台、真言、浄土、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗の七派が、入り乱れて、僧衣の、ファッシンョンショーを開催。
お経を唱え、総勢50名の僧が、出たというのだ。

知性は、勿論のこと、感性も皆無。
地球の裏側で、餓死する者たちを、知性で感得することも、それにより、感性を磨くこともしない。
更に、ミャンマーで、僧侶たちが、軍事政権に、多数殺害されたことへの、想像力も無いという、有様である。

よくも、ここまで、落ちたものだと言う。
僧侶の価値が無いのは、当然だが、人間としても、死んだ方がマシなのである。
上記の開祖たちの、教えが、いかに大嘘であることが、如実に解るというものである。

あまりに、愚かであり、愚劣といってよいほどの行為である。

彼らの、やるべきことは、寝ずにやるべきこと、多数ある。
少しの、慈悲の思いが、あれば、地球の裏側で起こる悲劇に、行為行動するはずである。

その恥ずべき行為に、自害して果てることが、得策である。
築地本願寺の言い分である。
葬式とか、暗いイメージたでけで仏教をとらえないで、ビジュアルからでも入っていただければ、というのである。
葬式、暗いイメージだからこそ、金儲けが出来るのであろうが。
何を言う。

勿論、葬式も、10年を経ないで、寺など、捨てられるのである。
誰も、僧侶などに、読経をして貰おうなどとは、思わない。
最後の輝きである。
消え入る前の、最後の光を、自ら演じて、幕を引くという。
それで、よし。

さて、続ける。

自分が他者を抑圧している場合は、自分はそれによって直接痛むわけではないから、なかなかそれとは気づかない。だから、感性ばかりに頼って人間性の豊かさが求められると思っていると、自分に加えられる不正に対しては闘うことはできても、ところ変われば、自分は知らずして他人を抑圧する側に立っていながらけろっとしているものである。

田川氏の論調は、宗教が、最高の知とされた時代から、その変転を語り、感性であるとされた、宗教が、知性でも、感性でもなく、霊という、言葉を用いだしたことを言う。
知性や感性を超える霊的存在、霊である。
それを、カトリシズムを作り上げた、パウロの分析からする。
現代のカトリックは、パウロの方法を持って、続けているのである。

だが、キリスト教ヨーロッパの歴史は、キリスト教支配の世界に、そのつど、息吹を吹き込んだのは、霊を重んじる、異端であったという。

西洋の宗教の歴史は、宗教知の支配に対して、それを打破しようとする、熱狂主義が繰り返し出てきては、挫折するというものだった。

宗教は、いつでも、最高知として、君臨しようとした。
しかし、それを、打破しようとする、霊が、感性と、同一視されることは、なかった。

宗教を単純に「知」に対する対立物としてとらえ、あまつさえそれを「感性」と同一視する、などというのは、長い歴史から見れば、近世、それもせいぜい最近一、二世紀の特殊な現象に過ぎない。ということはつまり決して、そこに宗教の本質がある、などというのではないので、むしろ、宗教をそのように作り変えようとしたところに、近・現代の特色がある、ということになる。

ここまでに至ると、日本の宗教家たちは、お手上げになる。
そんなことを、考えてはいないからである。
兎に角、金儲けである。
如何に、信者から、金を巻き上げるかである。
ただ、それのみに、専心して、いつでも、金のためならば、教義も売るのである。
開祖も何も、あったものではない。
しまいに、死後の世界など無い、霊など無いという、始末である。

それでは、何ゆえに、宗教の中いるのかといえば、商売なのである。
僧侶とは、職業であり、志のあるようなものではないのである。

勿論、仏典の徹底的、分析をすれば、迷う。よく、解らないからである。しかし、実際、よく解る仏典などない。
すべて、戯言であるから、分析などしては、商売に専念できないのである。

兎も角、有り難い教えであると、爺、婆を騙していればいいのだ。

もっともらしく、先祖をご供養することで、子孫は、先祖から守られて、幸せになる。
死後は、極楽に行けますと、大嘘を言うのである。
何せ、自分でさえも、極楽に行くのか、どうか、解らないのである。

勿論、霊界に、極楽などという空間は無い。

精々、キンキンきらきらの、僧衣をまとって、信者、信徒を誤魔化す、騙すの、一点にある。だから、演出だけには、拘る。それにより、金の集まり方が、違うからである。

戒名などという、如何わしいものを、与えて、偉い振りをしているという、僧侶は、完全、言語同断に、地獄に落ちる。
勿論、霊界には、地獄などという空間は無い。
ただ、彼らの意識では、地獄と呼ぶに相応しい、場所に行くということである。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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