2008年02月09日

神仏は妄想である 58

バートランド・ラッセル「私が信じるもの」より

私は、自分が死んだら腐り、私の自我の何一つとして残らないだろうと信じている。私は若くはないし、人生を愛している。しかし私は、自分がこの世から消えてなくなることを考えて恐怖に震えるなどという人を嘲らずにはいられない。幸福にはかならず終わりがあるといっても、それが本物の幸福であることに変わりないし、永遠につづかないからといって、思考や愛がその価値を失うわけでもけっしてないのである。多くの人間が刑場で誇り高く振舞ってきた。きっと、同じ誇りが私たちに、人類が世界の中で占める地位についてどう考えるべきかを教えてくれるに違いない。昔ながらの人を導く神話のぬくぬくした世界に、科学によって開けられた窓から冷たい風が吹き込んで、たとえ私たちを震えあがらせたとしても、最終的には、新鮮な空気が活力をもたらし、広大な空間はそれ自体のすばらしい輝きをもつようになる。

マーク・トウェインの言葉

死んでいるのは生まれていないのと何のちがいもないだろう。

上記、ドーキンスが、引用する。

死ぬことは、消滅すること。
何も無くなること。
死後の世界は無い。
等々、人間の死に関して、科学は実に冷静である。

死後の世界が無いということになれば、おおよそ、すべての宗教の意味は、消滅する。

死ねば、消滅する、無くなる、死後の世界は無い。
その通りである。

この次元では、その通りである。
次元を別にするのであるから、この次元にいたことは、消滅する。死後の世界というものも無い。
次元の違う世界は、死後の世界ではない。

次元を、別にした世界である。
その次元は、断絶している。
ただし、三次元に、二次元、一次元が、含まれているように、四次元には、三次元が含まれている。

霊学の、私の立場から言う。
次元の差は、隣にいても、永遠に遠い。

おおよそ、宗教、それに準じるものは、死後の世界や、霊について、云々する。

迷う先祖の霊が、子孫に助けを求めて、云々。
それにより、病も起こる。
先祖を供養することで、病が、癒えて、運も好転する。
実際、そういう体験をする者、宗教に多い。

奇跡もどきの、ことが、起こる。

眼が暗くて見え難いというようなのは、近親者の霊魂が霊界へ往ってまだ迷っておって、暗黒の冥府―――光の無いくらい世界―――に居る。そんな霊魂が暗い世界に向かって「救われたい」と念ずると、その「念力」すなわち精神波動が、丁度テレビ局の放送の電波みたいになってやってくるわけです。それで暗い精神波動を常に放送するわけですから、それを受信感応した人は光が見えないで暗く見えることになるわけです。
人生を支配する先祖供養 谷口雅春 成長の家創立者 より

もっともらしく、素直に受け入れると、本当だと、思う。
霊魂が、迷う。それが、救いを求める。そして、念ずる。それが、この世の人に、感応する。そして、病になる。

心理学、脳科学は、それに、答えを出すことが出来る。

それらは、すべて、主観である。客観性がない。
そのような、カラクリ、意味があるという、信念が、病を、癒すのである。

彼らは、病は、無いという。すべては、影だと言う。
人間、本来神の子であり、完全である。実相世界のみ、本当の世界である。この世は、仮りの世界である。

実相世界とは、霊界のことである。
あちらを、主、こちらを、従に、見立てる。
様々な、霊的現象を、元に、そのような、考え方を、作り出したのであろう。

否定はしない。
それも、一つの考え方である。

医学で、解決出来ないことは、霊魂による。
確かに、突然、病が、癒えるということもある。
先祖供養しなくても、癒えることがある。

神霊治療として、名を馳せる宗教団体もある。
すべて、霊障害であると、断定する。

否定はしない。

極めて、解り易く言う。
マイナス波動と、プラス波動である。
マイナス波動を、脳内に持つ人は、そのように、なる。それを、受ける、という。要するに、受信するという、言い方をする。

極めて、ありそうに思える表現、この世は、仮の世界で、霊界が、実相世界であると。

霊主体従と言い、霊が主で、体が、従だと、公言して憚らない、宗教である。

在り得ない。
体は、そのまま、霊である。
どちらが、主とか、従とかは、無い。

霊を、感じる、見る、とは、すべて、主観である。
その人の内で、起こることである。

磁気の乱れというものがある。霊的なものとは、磁気の乱れである。

霊学から言えば、霊的なものの、影響を、考えるが、この次元では、この次元の物事である。霊界を、関与させては、誤る。

次元違いは、隣にいても、永遠に遠いと、言った。

ちなみに、教祖で、最も、教祖たる、仏陀は、霊的なことを、一つも言わないのである。
霊界についても、触れない。
何故か。
必要ないからである。

この世で起こることは、この世で、解決するのである。
生老病死とは、この世の姿である。

暗い霊界で、救いを求めている霊とは、妄想である。
もし、そうであるならば、それは、宇宙の法則、自業自得であり、それを、解決するのは、その、霊のみである。

自ら、赴く所に行くのである。

病が癒えるのは、別問題である。
脳波による。
聖教読経して、癒えるとは、脳波の、心得の、変化である。
だから、否定しないと、言う。

寒い地方にいて、寒さからの、病にある人が、南の島で、暮らして、病が癒えるという。
環境を変えた、脳波の、変化である。

酷い肩凝りの人を、霊視して、肩に、きつねの霊がついていると、それを、取り除いて、肩凝りが治ればいいが、心臓病の前兆、それも、大きな心臓病の前兆である場合がある。
医学が、進歩しなかった時代なら、それは、通用するが、矢張り、心電図をとり、対処すべきである。

人間の、想像力とは、無限に広がる。
人道的問題はあるが、ヒトゲノム解読により、一生の病が、見て取れる。

霊学から、言う。
次元の違う、世界のこと、この世の云々に、堕落せしめては、誤るのである。
病の辛さにあるものを、見つめ続ける行為に、人間の尊厳がある。
決して、供養では治らない病を、彼らは、何と言うのか。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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