2008年02月08日

神仏は妄想である 57

キリスト教は、あるいはイスラム教でも事情はまったく同じことであるが、疑問を抱かない無条件の信仰こそ美徳であると、子供たちに教える。こと信仰の問題に関しては、自分が信じていることを論証する必要はない。もし誰かが、それは自分の信仰の一部であると宣言すれば、その社会の残りの人間は、同じような信仰をもっていようが、別の信仰をもっていようが、あるいは無宗教だろうが、根深い慣習によって、疑問を発することなくそれを「尊重」するよう強いられる。ただしそれは、世界貿易センタービルの破壊、あるいはロンドンやマドリードの爆破事件などにおける大虐殺という形でその信仰が表明される日がこないかぎりのことである。そういう事態が起きたいま、この過激主義が「真の」信仰からの逸脱であると説明するために、聖職者や「共同体の指導者」(ついでながら、誰が彼らを選んだのか?) たちが雁首を揃えて、自分たちにはかかわりないという大合唱がなされている。しかし、もし信仰が客観的な正当化の理由を欠き、何が逸脱かについていかなる明白な基準ももたないのであれば、そもそも信仰の逸脱なるものがなぜ存在するのか?
ドーキンス

この疑問に、明確に答えられる、聖職者、及び、指導者は、いない。

テロリストたちより、よほど、性悪なのは、彼らだからである。

自分たちの、手は、一切、汚さなくていいのである。皆、信者が、それを、行う。

サリンを、撒かせた、教祖は、たらふく食い、居眠りをして、最悪の、事態を引き起こした。その、教祖と、何ら、変わらない。
恐るべき、悪人である。極悪人とも、言う。

3月6日、エルサレムのユダヤ教神学校に、パレスチナ人が、侵入し、銃を乱射して、8名が死亡、約10名が、負傷した。
政治の問題ではない。
宗教の問題である。

二月下旬に、イスラエル軍が、ガザ地区に、攻撃して、120名が、死んだ。それの、報復である。

更に、同じ日に、バグダッドでも、連続テロにより、55名が死亡。
問題は、宗教である。

さて、日本は、それらを、遠い話と、聞いている。
しかし、もし、本格的テロ攻撃が、開始された場合、特に、世界的メッセージをテロリストが、発する場合、日本攻撃が、最も有効であることを、知っている。
何故か。
日本には、同胞が、少ないからである。
大規模テロは、同胞をも、巻き込むのである。
それを、最小限に食い止める大規模テロは、経済大国、日本である。

大規模テロとは、核兵器を使用する、テロである。

万が一、それが、実行されると、即座に、中国、北朝鮮、ロシアが、日本攻撃を開始する。

日本人は、大陸の人種の、野蛮さを、知らない。

話を戻す。

本当の意味で有害なのは、子供に信仰そのものが美徳であると教えることである。信仰は、それがいかなる正当化の根拠も必要とせず、いかなる議論も許さないという、まさにその理由によって悪なのである。
ドーキンス

宗教の蒙昧は、救いようが無いのである。
例えば、鎌倉仏教の、日蓮である。
他宗を、すべて、排斥して、これのみ、正しい、これのみ、唯一の、仏法として、法華経を、掲げた。
それは、真っ当な、批判ではない。
単に、あちらではなく、こちらである、という、挿げ替えを行っただけである。

そっちを、拝めば、不幸になる。こっちを、拝めば、幸せになる。という、程度の、認識である。
それが、今では、大聖人と言われる。

法然、親鸞が、島流しにされたのは、単に、既成集団の、嫉妬であるが、日蓮の場合は、混乱を、招くとの、良識ある、僧侶たちの、排斥である。
それを、御受難として、捉える。

勝手な解釈、勝手な妄想は、宗教家の、独断場である。
何ほどの、艱難辛苦も、法華経がためり。
今、日蓮が、法華経を、云々しなければ、日本は滅びる、云々。

手が付けられない。

キリシタン弾圧当時の、キリシタンと同じく、盲信、妄信、狂信の様である。

死ぬまでの、暇つぶしに、心の大半を、それに占領されて、人生の真実を、見ずに、死ぬという、あまりにも、愚昧な行為を、犯す。

他宗教を、鼻でせせら笑うという、傲慢極まりない人格を、養成されて、自己陶酔に、浸るという様、憐れである。

それは、一神教すべてに、言えるのである。

子供に、疑問を抱かない絶対的な美徳であると教えることは、彼らにーーー手に入れることがむずかしくないいくつかの他の要素が与えられればーーー、将来のジハードまたは十字軍のための潜在的な凶器となるべく育つ素地を与えることにほかならない。殉教者の天国を約束されることによって、恐怖に対する免疫力を与えられた正真正銘の狂信者こそ、長弓、軍馬、戦車、クライスター爆弾などとならんで、武器の歴史において高い地位を占めるに値するものだ。もし子供たちが、疑問を抱くことのない信仰という高い美徳を教えられる代わりに、自らの信念を通して疑問を発し、考えるように教えられれば、自爆者はきっといなくなるだろう。
ドーキンス

信仰とはきわめて危険なものになる可能性を秘めたものであり、罪もない子供の抵抗力のない心に、意図的にそれを植えつけるのは重大なまちがいである。
ドーキンス

私は、ドーキンスが、いいたかったことの、すべてを、上記の言葉にみる。
21世紀を、生きる子供たちに、幸せでいて欲しいと願えば、ドーキンスは、渾身の力を込めて、それを、説こうとするだろう。

目覚めて、祈れ、と、イエスキリストが、聖書の中で言う。
それは、セクトの宗教団体の、言葉であるが、目覚めて、祈れとは、疑問を持ち、自分の信念を、よく見て、行為せよという、意味である。
つまり、人間の知性を、覚醒させ、感性を磨き、理性によって、行為、行動する人間たれ、ということである。

その一つ、たった一つに、宗教の教義等もあり、それは、信仰するものではなく、一つの知識として、活用するものであること。

この世に、絶対という言葉は無いとも、キリストは言う。
その通りである。
この世に、絶対という、モノは、無い。あるわけが無い。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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